006 闇と色彩

「聞こえなかった?」
 驚いて、ソラは眠そうなジインの横顔を見上げた。
 がたがたと床が揺れる。二人を乗せた旧式のエレベーターは、途中で分解しそうなほど乱暴な速度でぐんぐん下がっていた。
 天井からどこのものとも知れないネジがひとつ落っこちてくる。
 さりげなく手すりに掴まりながら、ソラは確認するようにもう一度訊ねた。
「ジインには、あの人たちの声が聞こえなかったの?」
 昨夜、襲撃者たちがホテルのフロントで交わしていた会話をソラははっきりと覚えていた。
 それだけではない。となりの部屋の甘い会話も、下の階のシャワーの音も、エントランスの自動ドアの開閉音も、ソラにはしっかり聞こえていた。とくに意識をしなければ、それらは膨大な雑音として背景に溶け込んでいる。その中から特定の音を選び出すのは、景色のなかの一点に焦点を合わせるのと同じで、ソラにとっては容易いことだ。
 けれど。
「おれも耳は良いほうだけど、さすがに七階も下の声は聞こえないな」
 隣部屋の声さえはっきり聞き取れないというジインに、ソラはきょとんと首を傾げた。
「どうして聞こえないの?」
「どうして……って言われてもなあ。おれが聞こえないんじゃなくて、おまえが聞こえすぎるんだよ。言っただろ? 特殊な体質だって。おまえは五感がずば抜けて良いんだ。並みの人間には聞こえない音がおまえには聞こえるし、肉眼では見えないものがおまえなら見える」
 少し考えてから、ソラは再び口を開いた。
「じゃあ、ぼくにはジインよりも色んな音が聞こえてるってこと?」
「そういうこと。おれの力なんかよりもずっと便利だよ。昨日はおれも一応ドアに細工しておいたけど、おまえが早めに気づいてくれたから奴らとやり合わずに済んだ。正直“飛空”でかなりへばってたから、助かったよ」
 ありがとな、とジインの手がくしゃりと頭を撫でた。
 吸い込んだ空気で胸がふくらむ。
 嬉しい。
 ジインに褒められたこともそうだが、なにより自分に人より優れた力があることが嬉しかった。
 そして、その力でジインを助けることができたことも。
 けれど、まだまだだ。
 昨夜の自分の慌てぶりを思い出して、反省する。敵の襲撃に早めに気がついても、脱出路を把握していなければ意味がない。せっかくの特殊体質も宝の持ち腐れだ。
 この力をちゃんと生かすための知識と技術を身につけなくては。
 耳を澄まし、目を凝らし、鼻を利かせて、危険を察知する。うまく使えば、たとえ人混みで追手が近づいてきたとしてもすぐ気づくことができるはずだ。高性能レーダーのように怪しい奴を一人残さず察知して、かっこよくジインを助ける。そんな想像にソラはひとりでにやついた。
 派手に軋む鉄格子の向こうで、景色が上へ上へと飛ぶように流れていく。空は遠く小さくなり、だんだんと辺りが薄暗くなる。
 『彩色飴街』はがらくたを積み上げたような街だ。
 その昔、土地代を払えない人々が崖につき出した“空中”に家を作ったのが始まりだというこの街は、増築に増築を重ね、横は陸島を南北に貫くほどに広がり、縦は地上四階から谷の底にまで達していた。それは一つの街というより、もはや巨大な都市の集合体と言ったほうが近いだろう。
 でたらめに増築を重ねた建物は形も大きさもバラバラで、人々はいたるところにある隙間や段差を橋や梯子で繋ぎ、その上を行き来している。つぎはぎだらけの配管が縦横無尽に這い回り、クモの巣のように張り巡らされた電線はなけなしの空を覆い尽くさんばかりだ。
 建物の合間からは時折、谷をはさんだ東側の街が見えた。深い谷の両壁にびっしりとこびりつく鈍色の街は下へ行くほど闇へ沈み、ぽつぽつと光る灯りが夜空に浮かぶ星のよう。
 せり出した屋根の上で、子どもたちが遊んでいる。
「落っこちて死ぬ人とかいないの?」
「もちろんいる。酔っぱらいとかな。降ってきた人間に当たって死ぬやつも結構多いぞ。まあ、どこだって人は死ぬけどな」
 扉の横のメーターが、ぎこちない動きで“十八”を示す。
「そろそろ着くぞ。フードをちゃんとかぶれ」
 ようし、ここからが“高性能レーダー”の出番だ。
 深く息を吸い込んで、ソラは感覚を研ぎすました。
 悲鳴に似た音を立てて、エレベーターが止まる。全身からやる気をみなぎらせて一歩踏み出した途端、見えないなにかが正面から、どん、とソラにぶつかった。
 うごめく人波、途切れることのない足音、どこまでも続く屋台の列、飛び交う客引き口上、罵声、さざめき、立ちこめる煙。
 そんなものがごちゃまぜになって、ソラの感覚を押しつぶした。
「う、わ」
 女の笑い声、何かが焼ける匂い、ぶつかる罵倒、嬌声、ちらつく金物の光沢、配管の油、汗の匂い、揺れる灯り、子どもの泣き声、古着の掠れた色彩――……。
 くらりと目がまわった。
「どうした、大丈夫か?」
 無意識に後じさった体を、ジインの腕が支える。
「音が、多すぎて」
 言いながら耳を塞ぐ。手のひらで遮断しても、雑多な音の奔流は容赦なくソラの鼓膜を揺さぶり続けた。
「うるさい……うるさすぎて気持ち悪い……」
「うるさい? 確かにここは騒々しいけど、昔はこのくらいの通りを平気で歩いてたぞ?」
 少し考えてから、ジインは言った。
「外に出るのが久しぶりすぎて、感覚が過敏になっているのかも。おまえは目も耳も鼻もよすぎるからな。聞こえるもの、見えるものをそのまま全部受け入れてたら、キャパオーバーで頭が保たないと思う。本当に必要なものだけを選んで、あとは適当に受け流したほうがいい。できるか?」
 押し寄せる感覚でかき消えそうなジインの声を、ソラは必死で聞き取った。
「本当に必要なものって……?」
「さあな。そこまではおれにもわからないよ。まあ、そのうち慣れるさ。昔は無意識にちゃんとできてたんだ。すぐにコツを思い出すよ」
 励ますように背中を軽く叩くと、ジインは喧噪の中へ歩み出した。慌ててコートの端を掴み、ソラはジインの背に隠れるように路地を歩き出した。
 ところどころにトタンを敷いた道は踏むたびにパコパコと音を立て、横からは無遠慮な物売りの手が伸びてくる。ただでさえ薄暗い視界を煙や人影が度々さえぎり、うまく避けても屋台の端や人の肩にぶつかったりするので、一瞬たりとも気が抜けない。人々が着込んでいるのはコンクリートに溶け込む床色の服ばかりで色彩が少ないのが唯一の救いだが、それでもうごめく人波はソラの神経は恐ろしい勢いで消耗させた。
 うるさい。本当にうるさい。目がちかちかするし、匂いもキツい。
 数分もたたないうちに、ソラはくらくらと目眩を覚え始めた。
 強かに肩がぶつかり、舌打ちをされる。その拍子にジインを見失って、ソラはあわてて人波をかき分けた。
 冷や汗が吹き出す。
 ジインの服はどんな色だった?
 黒? 濃紺? それとも、濃い緑だったか。
 情報の洪水は、その勢いで記憶まで曖昧にしてしまうらしい。
 暗色のフードを探す間にも、情報の洪水は容赦なくソラを押し流そうとしていた。
 目眩を覚まそうと頭上を仰ぐ。生き物の内臓のような天井を見て、逆に気分が悪くなった。
 頭のぐるぐるはさらに加速して、水洗トイレの渦よりも速くなっていく。
 このまま渦に身を任せて世界と一緒にまわってしまったら、楽になれるだろうか。
 目眩に吊られて傾いだ体を、ぐ、と立て直す。
 だめだ。しっかりしろ。
 危険を察知するどころか、このままでは足手まといになってしまう。
 考えろ、ソラ。
 今の自分にとって、必要な情報は。
 数歩先の人混みで、暗色のフードが振り返った。
「ソラ」
 聴覚を埋め尽くす喧噪の中でも、その声だけははっきりとソラに届いた。
 そして気がつく。
「あ……そうか」
 今ジインを見失うわけにはいかない。
 そのために必要な情報は。
 姿、声、におい。ジインに関する、五感の情報。
 それ以外は、いまは必要ではない。
 ジインに意識を集中して、他のものを脇へ押しやる。感覚を狭くすると、見えすぎていたものが背景に溶けて逆に視界がクリアになった。
 ほう、と安堵の息を吐き、額に滲んだ汗を拭う。
 人を避けながら戻ってきたジインが、ソラの手を掴んだ。
「顔色が悪いぞ。大丈夫か? 騒音がそんなに辛いなら、もっと静かな道を選べばよかったな」
 心配そうなジインに、ソラは慌てて首を振った。
「人ごみに紛れた方がいいんでしょ? 大丈夫。少しコツを掴んだみたいで、さっきより楽になったから」
「そうか。でもキツかったら早めに言えよ? おまえの感覚はおれにはわからないから」
 ジインに手を引かれながら、人混みを流れていく。
 これじゃあ、小さな子どもみたいだ。
 けれど今はまだ、この手に頼るしかない。
 かっこわるいな。
 唇を噛む。ささやかな自信と意気込みは見事に砕け散り、その欠片は胸の奥に突き刺さって小さな痛みを生んだ。
 今の自分は、本当にかっこわるい。
 肩を並べて歩くことができないほどの雑踏の中で体を斜めにしながら、ソラはひんやりとした指先を離さないよう、ほんの少しの悔しさも込めてしっかりと握り返した。
「夜になれば、灯りも人も増えてもっとにぎやかになる。この通りはこれでも小さいほうなんだ。もっと大きい路地もたくさんある。『彩色飴街』はこういう市場とか住宅地とか、たくさんの街が集まってできてるんだ。北から南まで三十七区、地上は四階から、地下は四十九層まで。西と東を一緒にして地上に並べたら、国土の半分は埋まるな」
「いつもこんなに薄暗いの?」
「空が遠いからな。下のほうはもっと暗いぞ」
 突然、すぐ近くから怒鳴り声が上がった。掴み合った二人の男が通行人を巻き込んで通路に倒れ込む。途端に飛び交う野次と罵声。人波はそこだけきれいに避けて流れ、殴り合いはすぐに喧噪の一部と化した。
 ジインがその横を何事もないかのように行き過ぎたので、ソラもそれにならう。過ぎる時にちらりと盗み見ると、若いほうの男が馬乗りになって、もう一人の男を殴りつけていた。
 殴られている男と一瞬だが目が合った。黄ばんだ目がソラを捕らえる。
 助けてくれ。
 唇がそう動いたような気がして、ソラは慌てて目を逸らした。
 人波に流されるまま遠ざかり、男の気配は背後の喧噪に溶けて消えてしまった。安堵するとともに、胸がちくりと痛む。
 見捨ててしまった。
 名も知らない他人ではあるけれど、“見捨てた”という行為が心の片隅に小さな影を落とす。
 けれど人に救いの手を差し伸べられるほど余裕のある状況でないことも、ソラにはわかっていた。自分たちは逃亡中なのだ。どうか彼が無事であるようにと心の中で祈ることしか、今のソラにはできなかった。
 角を曲がり細い横道を抜けて、狭い鉄の階段を下りる。いくつかの壁を隔てただけであれだけうるさかった喧噪は薄れて、その静けさにソラはほっと息を吐いた。
 人影まばらな道には店の裏口やゴミ置き場、住居らしき入口が点在しており、人々の生活が窺えた。油とすすで真っ黒に汚れた路地は人よりもネズミのほうが住みやすそうで、実際ネズミの親子が二度も前を横切った。列車のようにしっぽで繋がったネズミの母子を見て、繋いだままの手がふいに恥ずかしくなる。
 これじゃあまるで親子か、幼い兄弟みたいだ。
 自分から手放すこともできず何となく気まずいまま歩いていたが、梯子を渡しただけの小さな橋を通る時にそれは自然と離れた。ジインの手がするりと離れる瞬間、かすかな不安とともに何かを思い出しかけた気がしたけれど、結局それが何かはわからなかった。
「落っこちるなよ」
 がしゃがしゃと揺れる橋をジインが軽々と渡っていく。持ち前のバランス感覚のおかげか、ソラも眼下の透ける頼りない橋を難なく渡ることができた。
 橋は長いものも短いものもあり、なかには急な傾斜になっているものや、途中で別の橋へ移れるよう橋と橋にさらに橋がかかっているものもあった。いたるところにある建物の狭間は上か下に何階分も吹き抜けていて、それ自体が小さな谷のようだ。
 見上げると、はためく洗濯物の合間で遠い空がほんのわずかに白く光っていた。

 

 ――……。

 

「え?」
 耳元で音がして、ソラは思わず立ち止まった。
 きょろきょろと辺りを見回して、首を傾げる。
 いったい何の音だろう。
 ――……。
 また聞こえた。とてもきれいな音だ。
 澄みきった、美しい響き。
 まるで、ふわりと心が浮き上がるような。
「ジイン、聞こえる?」
「なにが?」
「この音。なんか鈴みたいな」
「鈴? ……聞こえないけど。またどこか遠くの音を拾ったんじゃないか?」
「ううん、すごく近くだよ……」
 音は頭のすぐ上から降ってくるようだった。
 始めは一つだった音が、次第に増え、重なりあっていく。
 美しい旋律。
 うっとりと聞き入るうちに、自然と笑みがこぼれた。
 細胞が震えて、体が軽くなっていく。
 魂を持っていかれそうだ。
 ああ、なんて心地いいんだろう。
 ゴーグルを外して頭上を仰ぎ、ジインはしばらく耳を澄ましていたが、やがてあきらめたように首を振った。
「やっぱり、おれには聞こえないな」
 言いながら前へ向き直ったジインが、戸口からふらりと出てきた男と強かにぶつかった。
「ってぇな、どこ見てやがる!」
 男が野太い悪態を吐く。避ける間もなく突き飛ばされて壁に激突したジインが、脇腹を押さえて顔を歪ませた。
 脇腹の傷――……!
「なにすんだよ!」
 考えるより先に駆け出して、ソラは男を思いきり突き飛ばした。
「ぐぇっ!」
 大柄な男はまるで空き缶のように吹っ飛んで宙を舞い、路地を転がって何メートルも先のゴミ捨て場に突っ込んだ。
 手をつき出したままの状態でソラは唖然とした。
 そこまで力を込めたつもりはない。ちょっと押しただけなのに。
 人間って、こんなによく飛ぶものだったろうか?
「おい、何だ今の音は」
 戸口から顔を出した数人の男が、ゴミ捨て場とジインを交互に見た。
「面倒な……」
 ジインが低く舌打ちする。
「なんだァ、お前ら」
 取り囲む男たちを間近で仰いで、ソラは思わず咽せた。鼻を利かせるまでもない、ひどい酒の匂いだ。
 ゴミ捨て場の男は完全に伸びているらしく、仲間に足で小突かれてもぴくりともしなかった。
「おいおい、大丈夫かよ。まさかこんなチビにやられたんじゃねえだろうな」
「あららァ、ガキのくせにいい服着てんなあ。どこぞの坊か?」
「羽振りがイイなら、俺らにもお小遣いチョーダイ?」
 ぎゃはは、と酒臭い笑いが辺りに響く。伸びている奴を除いて、男は四人。皆明らかに酔ってはいるけれど、足がふらつくほどではない。どの顔もちょうどいい暇つぶしを見つけたとばかりにニヤついており、隙を見て逃げるのは難しそうだ。
 どうしよう。ジインはどうするつもりだろうか。
 ソラはちらりとジインを窺った。
 壁に寄りかかったまま、ジインは無表情で男たちを見上げていた。何を考えているのか、その横顔からはなにも窺えない。
 『ハコ』の時のように魔法を使うのだろうか。それとも拳で戦うのだろうか。魔法使いであることは極力隠さなければならない。だとしたら、やはり素手で戦うしかない。
 ほっそりした体つきからして、ジインはお世辞にも強そうには見えなかった。
 ぐっと拳を握る。
 いざという時は、自分がなんとかしなければ……。
「おい、聞いてンのか……」
 ふいにジインが動いた。何の前触れもなく男の胸ぐらを掴むと、そのまま壁に顔面を叩きつけた。
「ぎゃ!」
 潰れた悲鳴を上げてよろけた男の腹にすかさず拳を叩き込み、前のめりになった肩を蹴り飛ばす。後ろにいた一人を巻き添えにして男は吹っ飛び、路地を無様に転がった。
「え……」
 一瞬のできごとだった。
 突然のことにその場にいた人間はソラも含めてみな凍りつき、身動きできなくなった。
 人を殴れば逆に折れてしまいそうなほど細く白い手をさすりながら、ジインがゆっくりとした足取りで倒れた男に近づいていく。冷えきったその瞳は周りの人間を完全に無視していたけれど、その余裕がそのままジインの力量を表しているようで。
 誰ひとり身動きがとれないまま、誰かが生唾を飲む。
 今ジインの視界に入ることは、自殺行為のように思えた。
 顔面から血を流す男の肩を踏みつけると、ジインは男のベルトにぶら下がる小振りのナイフを引き抜いた。
「生きたいか?」
 切れ味を確かめるように指先で刃をなぞりながら、世間話をするような軽い調子でジインは言った。浅い呼吸を繰り返す男の目玉が、きょろきょろと所在なく動く。その鼻先にナイフを突きつけて、ジインは再び訊ねた。
「もう一度だけ聞く。生きたいか?」
「う、うう……」
 血と涙でぐちゃぐちゃの顔が、小刻みにうなずいた。
「そうか」
 逆手に持ったナイフが振り上げられる。男の目が恐怖に見開き、ソラは思わず叫んでいた。
「ジイン!!」
「ひいいっ」
 バスン、と鈍い音を立てて、トタンの床にナイフが突き刺さる。
「……この先も生きていたいならさ、おっさん」
 顔すれすれにナイフを残したまま、ジインは悠々と立ち上がった。
「おれのまえにちょろちょろ出てくるな。目障りだ」
 双眸に侮蔑をにじませて冷たく言い放つと、何事もなかったようにジインは歩き出した。
 すっかり酔いのさめた男たちは、ジインを避けるように壁伝いに移動して、倒れたままの男を戸口へと引きずっていった。
「おい、大丈夫か」
「うう、いてぇ……いてぇよ……」
「くそ、イカレたガキめ……」
「しっ! 止めとけ、殺されるぞ」
 情けないすすり泣きの合間に、怯えたささやき声が聞こえる。
「――おい、ソラ!」
 弾かれたように顔を上げる。路地の先で立ち止まったジインが、こちらを振り返っている。
「何してんだ、行くぞ!」
「う、うん」
 その場に立ち尽くしていたソラは、慌ててその背中を追った。
 視界の端に、ちらりと男が映る。
「ちくしょう……何だってんだ……ちくしょうめ」
 指の間から漏れるか細い呟きに、ちくりと胸が痛くなる。
 ぎゅっと唇を噛んで、その声から逃げるようにソラは足を速めた。
「ジイン……ねえ、ジインってば!」
 角を曲がり、男のうめき声が届かなくなったところで、ソラは前を行くジインの袖を引っぱった。
「ん? 何だ」
 きょとんとした顔で振り返った少年に、ためらいがちに言う。
「ちょっとやりすぎじゃない?」
「なにが?」
「今の人たち。なにもあそこまでしなくても……」
 ああ、とジインは何日も前のことを思い出したような顔で首を傾げた。
「なんかしつこそうだったからさ。追い回されたりしたら目立つし、まくのも面倒だろ?」
「でも、たくさん血が出てたよ」
 ジインが笑った。ついさっき冷徹な目で血だらけの男を見下ろしていた顔が、今は無邪気に笑っている。
「あんなの、ほとんどが鼻血だよ。大したケガじゃない。顔面血だらけってインパクトがあるだろ? だから脅しが利く。手っ取り早くビビらせるには、顔を狙うのが一番なんだ」
「でも……」
「なんだよ、あんな酔っぱらいの肩を持つのか?」
「べつにそういうわけじゃないよ。けど……」
 思わず不満げな声になる。短くため息をつくと、ジインはくるりと向き直って両手を腰に当て、ソラを軽く睨んだ。
「あのなぁ。言っておくけど、あのくらいで済むなんて奴らは運がいいほうだぞ? 相手の力量も量れずにケンカを吹っかけるなんて、この街じゃ“どうぞ殺して下さい”って言ってるようなもんだ。普通なら仲間共々ズタボロにされて、今頃その辺に転がってる。鼻血ぐらいで済んで、逆に感謝されてもいいくらいだ」
「でも……」
 ジインの顔をまっすぐ見れないまま、ソラはぼそぼそと言った。
「なんていうか……ああいうの、ジインらしくないっていうか」
「らしくない? 記憶がないのに、おれが“らしくない”なんてどうしてわかるんだ」
 記憶がないのに。
 その一言が、ちくりと胸に突き刺さる。
「それに、おれが“らしい”か“らしくない”かなんて関係ない。“やられる前にやれ”、それがこの街の鉄則だ。やらなきゃやられる。この街はそういう街なんだよ」
「でも……ジインがああいうことするの、なんか嫌っていうか……」
 必死で言葉を探しながら、もどかしさにソラは唇をかんだ。
 自分でも何が言いたいのかわからない。
 何かとても大切な感情が胸の奥底からわき上がっているのに、それが入り口あたりでつかえて出てこない。
 いったい自分は、ジインに何を伝えたいのだろう。
「……まさかおまえにそんなこと言われるとは思わなかった」
 不本意そうにぼそりと言うと、ジインはくるりと背を向けた。
「貧困街で暮らしてた頃はさ、先に相手に殴りかかるのはいつもおまえのほうだったんだ。それこそおれが止めるヒマもないくらいの速攻でさ」
 なのに、おまえがそんなこと言うなんて。
 ため息まじりに呟いて、ジインの背中が薄闇の中へ歩き出す。
 胸の奥が、擦りむいたようにひりひりと痛んだ。

 

 同じベッドで眠ったその背中が、いまは少し遠い。

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