012 中庭

 私は、彼の何を知っているのだろう。

 

「ね、黒瀬くんの誕生日はいつ?」
 昼食後の休憩時間。薄く雲の溶けた空はやわらかな水色だ。そこに流れているはずの秋の空気は、高圧ガラスのドームで隔たれたここには届かない。
 空の色が季節によって変わることを小雪は最近になって知った。青々と茂る木々にどこか違和感を覚えるのは、きっと空が秋の色をしているからだろう。
 徹底管理された中庭は、今日もわざとらしいほどの緑に溢れていた。人工の風に揺れる葉が、膝の上にやわらかい影を落とす。
「誕生日……なんで?」
 路音はいつものように向かいのベンチで寝転んでいた。まぶたを閉じてはいるが、彼が本当に眠っているところを一度も見たことがない。
「占い。誕生日と性別から算出したバイオリズムで相性の数値がでるの。ね、誕生日は?」
 薄いまぶたがゆっくりと開かれる。
「四月九日」
「四月九日? 私、三月十日なの。なんだか似てるね」
 四と三。九と十。少しこじつけっぽいが、路音との繋がりならどんな些細なことでも嬉しかった。
「……か、十九日」
 路音がぽつりと付け加え、小雪はきょとんと首を傾げた。
「……どっちなの?」
「わからない。忘れた」
「自分の誕生日なのに?」
「自分の誕生日なのに」
 路音が呆れたように言う。
 まるで他人事のような言い方がおかしくて、小雪はくすくすと笑った。
「じゃあ両方でやってみるね。まずは九日のほうから」
 手元の端末に必要な情報を入力していく。結果はすぐに出た。
「97点!」
「100点満点で?」
「そう、すごい高数値だよ」
「へえ……じゃあ相性いいんだな、おれたち」
 路音がやわらかく微笑んだ。透きとおるような笑顔だ。額にかかる前髪が、はらりとこめかみに落ちる。どきりとした。
 男の子なのに、なんでこんなに色っぽいんだろう。
「……小雪?」
 はっと我に返り、小雪は慌てて下を向いた。
「じゃ、じゃあ今度は十九日ね!」
 確実に赤くなっているであろう頬を隠すようにして、端末をのぞき込む。
 この占いはいま一部の女の子の間で流行っていて、恋人はもちろん、少し気になる相手や友達、家族など、自分に関わる人間との相性を手当たり次第に占っては、みんなできゃあきゃあと盛り上がっていた。97点は今まで見た中で一番高い数値だ。実のところこの数値に科学的根拠はないのだが、そうとわかっていても顔がほころんでしまう。
 しかし次の瞬間、画面に表示された結果を見て小雪は愕然とした。
「……6点」
 これは低い。低すぎる。今まで見た中で一番低い数値だ。
 科学的根拠はないとわかっていても、へこんでしまう。
 九日でやめておけばよかった。九日なら、相性抜群なのに。
「九日だよ」
 顔を上げる。路音は再び仰向けに目を閉じていた。
「誕生日。たぶん九日だから」
 心に灯りが灯ったように、胸がほっこりと温かくなる。
 路音のこういうところがとても好きだ。
 少しぶっきらぼうなところもあるけれど、その言葉が冷たいと感じたことは一度もない。曖昧に濁したりすることがない分、逆に心地いいくらいだ。それでいてさりげない気づかいや優しさも、路音はちゃんと持っていた。今だって、そんな占い当たらないよと頭から否定したりせずに、ちゃんと付き合ってくれた。魔法院の人間の大半は、占いと聞くだけであからさまに見下した態度をとったりするのだ。科学的根拠もない占いなど、何の価値もないと思っているのだろう。ちょっとした遊び心すら、無駄なものだと思っているのかも知れない。
 成績と家柄。ここの人たちの関心があるのは、その二つだけだ。
 隙あらば周りを蹴落とし、自分より下位の者は見下して、上位の者には上手く取り入ろうとする。
 所属と評価に翻弄される魔法院の人たちの中で、路音の存在は異質だった。
 国立魔法院第二研究所で英才教育を受けた者がほぼ全員を占める魔法院に、突然現れた天然の魔法使い。
 外国人だとか、東の出身者だとか、実はどこかの財閥の私設研究室生まれで天然の魔法使いではない、なんて噂まであるけれど、どれも本当かどうかはわからないし、どれも小雪にとっては重要ではなかった。
 だって、見ればわかる。
 纏う空気が違うのだ。
 特別な人。
 路音のような人は他にいない。
 この中庭に通うようになってから、世界は色彩豊かで美しく、日々輝きを増しているように思えた。
 けれど、時々。
 ふと不安に思うことがある。
「……あっ!」
 ふいに目の前をよぎった影を見上げて、小雪は目を丸くした。
 交互に煌めく黒と青。
「――チョウチョ?」
 はっとするほど鮮やかな青い蝶が、ひらひらと優雅に宙を舞っている。
「すごい……あんなにきれいな蝶、初めて見たわ」
 光沢のある青色は、まるで美しい宝石のようだ。ほうっと見蕩れる小雪の視線の先で、蝶はどんどん空のほうへ遠ざかっていく。はっとして、小雪は手元の端末を操作した。
「……何してるんだ?」
「調べるの。ここには観賞用の蝶が放してあるけど、あんな色のは見たことがないわ。もしかしたら研究施設から逃げ出したのかも……」
 中庭の環境情報へアクセスする。温度や湿度はもちろん、魔法に影響する空気中のピアナクロセイド濃度、酸素濃度や土壌のPH数値まで、ありとあらゆる情報を画面上で確認することができる。小雪は“動植物”の項目から、飼育されている昆虫の種類を検索しようとした。
「放っておいてやれよ」
「えっ?」
 驚いて指を止める。路音がゆっくりと体を起こした。
「せっかく気持ち良さそうに飛んでるんだ、わざわざ捕まえなくてもいいだろ?」
「でも、ここじゃ生きていけないわ。ドームの中は温度も湿度も管理されてるけど、飼育槽とは環境が違うし、餌だって……」
「飼育槽に戻したとしても、生きられるのは二週間かそこらだろ。それに、永く生きることが必ずしも幸せとは限らないよ」
 永く生きることが、幸せとは限らない?
「それは、どういう意味?」
「そのままの意味だよ。もちろん“幸せに”永く生きられるのならそれにこしたことはないけど、ただ種の保存のためだけに生かされて、狭い飼育槽で飛ぶことも許されず一生を終えるのなら、たとえ短い間でも自由に空を飛び回るほうが蝶にとっては幸せかもしれないだろ」
 蝶にとっての幸せ。そんなこと、考えてもみなかった。
 永く生きることよりも、自由であることが、蝶にとっては幸せなのだろうか。
「でも……お腹が減って死んじゃうのはかわいそうじゃない?」
「お腹が減って?」
 路音が小さく笑う。
「優しいんだな、小雪は」
 かあっと頬が熱くなる。
 路音のささいな一挙一動に、心が震える。
 路音といると、驚いたり舞い上がったりで息をつく暇がない。
「確かに、蝶の気持ちなんてわからないよ。実際は、“腹減った、飼育槽帰りてぇ”とか思ってるのかも知れないし。でももしおれが蝶だったら、少なくとも人間の都合で生かされたくはないな」
 路音が静かに空を見つめる。黒に近い濃紺の瞳が、光の加減でいつもより青く見えた。
 蝶の青より、深く透明な青だ。
「何にせよ、羽を持って生まれたものを地上に留めておくことはできないよ」
 見上げると、蝶はもうずっと高いところにいた。けれど、その先は高圧ガラスのドームだ。いくら空を目指しても、厚いガラスに隔たれたそこへたどり着くことはできない。
 それを知っているはずなのに、まぶしそうに空を見上げる路音の横顔は、まるで蝶がガラスを突き抜けて空へ飛び出せると信じているかのようだ。
 時折見せるその表情は、どこまでも透明で美しく、同時にひどく儚い感じがした。
 まるで、そのまま消えてしまいそうな。
 胸の奥が、ぎゅ、と苦しくなる。
 路音のことが好きだ。
 ずっとこうして一緒にいたい。
 けれど、こんな時は言いようのない不安が募る。
 いつか路音が、手の届かないところへ行ってしまうのではないかと。

 

 そして今、不安は現実のものとなりつつあった。

 

「笹原、起きているか?」
 インターフォンから北見聡太の遠慮がちな声が聞こえ、小雪はまぶたを開けた。
「起きてるわ、入って」
 第四区にある監視塔の仮眠室。固いベッドから起き上がって軽く髪を撫でつけると、小雪は深いため息を吐いた。
 結局、少しも眠れなかった。
 次から次へと思い起こされる記憶が、考えることを止めさせてくれない。
 音もなく扉が横滑りし、聡太が部屋へ入ってきた。
「通報があった。『彩色飴街』の東十四楼三十層だ」
 聡太は興奮した様子で早口にそう告げた。いつの間に着替えたのか、院の制服ではなく地味な色の服を着ている。
「見つかったの?」
「まだこちらで直接確認できたわけじゃないけど、本人なのは間違いないらしい。今から東へ向かう。制服は目立つから、これを」
 服を手渡される。聡太が着ているものと同じような地味な色合いだ。確かに制服を着ていては、大声で自分の居場所を教えているのと同じだった。せっかく彼に近づいても、気づかれたら逃げたり隠れたりされてしまうだろう。
 逃げたり、隠れたり。
 されてしまうだろうか、やっぱり。
 顔を合わせた時、路音はどういう反応をするだろう。
 それを考えるたびに、胃のあたりがぎゅっとなる。
 聡太が眉をひそめた。
「顔色が悪い。笹原はここで待ってたほうがいいんじゃないか?」
「いいえ、行くわ」
 受け取った服を強く握りしめる。
 それでも、行かなければ。
「……準備ができたら来てくれ。外で待ってる」
 ため息を吐きながら、聡太は部屋を出て行った。
 扉が閉まるのを待って、素早く制服を脱ぐ。
 袖を通した服はシンプルで動きやすく、意外と可愛かった。備え付けられた洗面台の小さな鏡をのぞきながら、一体誰が選んだのだろうとどうでもいいことを考える。若い女の人かしら。いずれにせよ、変な服じゃなくてよかった。どんな状況であれ、路音に会うのに可愛くない格好は嫌だった。そういえば路音の私服もこんな風にシンプルで細身だったなと思い出し、ボタンを留める手をふと止めた。
 路音の私服姿など数えるほどしか見たことがない。会っていたのはいつも制服。講義の合間の休憩時間、中庭の奥にある円弧型のあのベンチだ。
 記憶に残っているのは、寝転んで空を見上げる横顔ばかり。
 その瞳が、何を見つめていたのか、誰を想っていたのか、少しも知らなかった。
 それでも自分は、彼の一番近いところにいると思っていた。
 中庭で、あの透きとおるような笑顔を見る度に。
 真夜中のように静かな声を聞く度に。
 自分だけが特別で。
 自分だけが、路音の素顔に触れている。
 そう思っていた。
 それなのに。
 彼は行ってしまった。
 なにも告げず。なにも語らず。
 私を置いて、行ってしまった。
 どうして?
 どうして何も言ってくれなかったの。
 どうしてひとりで行ってしまったの。
 ああ、違った。“ひとり”ではないのだ。
 彼はいま、“ヒトガタ”と一緒にいる。
 どうして?
 『ハコ』から“ヒトガタ”を連れ出すなんて。
 その“ヒトガタ”は、あなたの何?
 あなたの心に居たのは、私じゃなかったの?
 私は、いなかったの?
 それなら、どうして。
 ――じゃあさ、付き合う? おれたちも――。
 あの時、あの中庭で、いたずらっぽく笑ったりしたの。
 どうして?
 どうして。
 わからない。
 わからないから、会いに行く。
 会って、そして確かめたかった。

 

 私は、あなたの何?
 その瞳に、私はちゃんと映っていたの?

 

 会って、ちゃんと答えて欲しい。
 だから、どうか。
「……逃げないで」
 鏡に向かって呟きながら、小雪は頼りなく揺れる自分の瞳を見つめた。

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