016 それでも、おまえを愛しているよ

 ばさりと羽を広げて、竜が飛んだ。大きく風を孕んだ羽がすうっとすぼまって、一瞬のうちに速度が上がる。
 まっすぐにこちらへ突っ込んでくる竜を十分に引きつけてから、ジインは右へ跳んだ。魔法の力を借りて、奈落の側面を飛ぶように駆ける。
 建物に衝突する直前で、竜は機敏に羽をひるがえして方向を変えた。
 速い……!
 恐ろしい速度で迫る気配を寸でのところでかわし、くるりと回転して下へ逃げた。『支柱晶』に乗り竜の下をくぐり抜けて、奈落の闇を滑る。
 持久戦を覚悟するなら、負担の大きい飛空は最小限に抑えなければならない。
 竜の出現を聞きつけて皆避難したのだろう、人気のなくなった吊り橋へ着地すると、ジインは欄干を駆けた。追いついた竜の喉が、背後でぐるる、と不気味に唸る。
 来る……!
 建物の屋根めがけて跳躍しながら体を捻る。途端に襲ってきた炎を、防護壁で横へ受け流した。防ぎきれない熱がじりじりと肌を焼く。
 思わず目を細めたジインの目の前に、突然竜の頭が現れた。
 燃え盛る炎を突き破り、ずらりと並んだ鋭い牙が迫る。
「ク……ッ!」
 とっさに構えた『支柱晶』が、甲高い音を立てて牙を食い止めた。生暖かい息が頬にかかる。獰猛な眼光が目の前だ。
 奈落のような喉の奥に、緋い炎がちらりと見えた。
「――ッ!」
 どん、という衝撃とともに、竜がよろめいた。その隙に東側の足場へと着地して、素早く身構える。竜の注意が他へ向いているのを確認して、ジインは止めていた息を吐き出した。
 助かった。今のは、おそらく沢木さんだろう。
 ばくばくと心臓が鳴る。額に滲む嫌な汗を手の甲で拭った。
 竜の動きが予想以上に速い。こんなペースでは半分も進まないうちにこちらがへばってしまう。それでなくても、魔法は長時間使い続けられる能力ではないのだ。
 金色の羽を大きくはばたかせて、竜が吠えた。血に飢えた獣の咆哮だ。見る影も無く変わり果てたその姿を見上げ、『支柱晶』を握りしめる。
「ソラ……」
 本当に、空へ逃がすことができるだろうか。
「……!」
 ふいに空気の質が変わった。
 対竜戦用にピアナクロセイドを貯蔵してあるタンクが開放されたのだ。
 いつどこで竜の出現があるかわからないため、街には消火用貯水槽と同じように非常用の貯蔵タンクが設置されている。監視塔からしか操作できないその栓を、沢木がその名を使って開放してくれたのだ。
 魔法は大気中に存在するピアナクロセイド粒子を自在に操る能力だ。空気中の粒子濃度は、当然魔法の効果にも大きな影響を及ぼす。
 試しに軽く念じてみると、意志に合わせて大気が震えた。
 これなら、いける。
 長い首を振って竜がこちらへ向き直った。剥き出された牙が刃のようにぎらりと光る。雷鳴のような唸り声を上げて迫る竜をまっすぐに見据えて、ジインは身構えた。
「……炎なら、おれも得手だ」
 潤沢なピアナクロセイドを味方に、右手の『支柱晶』が強靭な炎を纏う。
「――炎でおれに勝とうなんざ、百年早い!!」
 鮮烈な炎の軌跡を描いて、ジインは『支柱晶』を薙ぎ払った。鼻先を炎に巻かれて竜が高度を落とした隙に、あまり遠すぎない程度に上層へと跳ぶ。
「こっちだ、ソラ!」
 着かず離れず、術式と飛空を上手く使って、ジインは奈落の闇を逃げまわった。闇を駆け、跳躍し、時にその鼻先をかすめるようにして竜を誘う。機敏に動き回るジインに導かれるまま、竜も次第に上層へと移動していった。
 そう、この調子だ。
 このまま、魔法士団が到着する前に、空へ逃がすことができれば――……。
「っ、」
 足を滑らせて鉄の床に手をつく。あご先から汗が滴った。いつの間にか汗だくだ。
 次第に跳躍力が弱くなり、一歩一歩がずしりと重くなる。
 速度を上げて竜が迫ってきた。鉄筋の上を駆けて、大きなトタン板の壁を拳で思いきり叩く。円形の図が発光した。対魔法士用に仕掛けておいた術式は、ピアナクロセイド濃度の影響で想定以上の炎と疾風を巻き起こし、竜を後退させた。
 荒い呼吸を整えながら、奈落を見上げる。
 白く輝くばかりだった空も、その青さが確認できるほどまでに近づいた。
「あと、少し……」
 突然、竜が妙な動きをした。風に煽られたように、その体がどう、と傾ぐ。
 視界の端で、きらりと赤い点が光った。
「!?」
 何かが肩をかすめる。避けた弾みで足を踏み外し、体がぐらりと傾いだ。
「ク……ッ!」
 飛空を。
 念じた途端、頭に鋭い痛みが走った。脳の奥をぎゅっと締めつけられるような痛み。魔法を使い過ぎた時の症状だ。
 集中力が途切れた一瞬の隙に『支柱晶』が霧散した。
 支えを失った体が、真っ逆さまに空中へと落ちる。
 数メートル下につき出した鉄筋が見えた。
 『支柱晶』を作り直すには、短すぎる距離。
 ――ぶつかる。
 ふいに、強い風がジインを捉えた。突風に押された体は鉄筋の横をかすめ、奈落に面した下層の路地に着地する。とっさに受け身をとったものの強かに背中を打ち、一瞬息が止まりそうになった。確実に開いたであろう脇腹の傷が、鼓動に合わせてずきずきと痛み出す。
「う……、」
「路音、大丈夫!?」
「……小雪、か」
「ごめんなさい! 墜落しそうなのを助けたつもりだったんだけど、さすがに受け止めきれなくて……」
 北見と地上へ向かったはずの小雪が『支柱晶』を手に一人で駆け寄ってきた。
「どうしてここに……北見と一緒じゃなかったのか?」
「ピアナ砲は北見くんに任せたの。私は、その……やっぱり二人が心配で。様子を見に来たら、ちょうど路音が……」
 言いながら、張りつめた面持ちで小雪が奈落を見上げる。
 竜はまだ空中でもがくような動きをしていた。
 いったいどうしたのだろうか。
「ケガはない?」
 心配そうに覗き込む瞳に、少し無理をして微笑む。
「ああ。助かった、ありがとう。でもすぐにここを離れてくれ。ここは竜に近すぎる……」
 脇腹を庇いながら立ち上がった、その時。
 どん、と背中の右肩あたりに衝撃を受け、ジインは数歩よろめいた。
「あ……?」
 からんと床に落ちたものに目をやる。人差し指ほどの薬筒だ。側面に印字がある。
 『ACG-V4』
 ――対人用新型捕縛銃。
 じんと痺れた肩から、鈍い痛みが広がっていく。
 ああ、そうか。あの赤い光は、捕縛銃のレーザーサイト。
「ク、ソ……ッ!」
 肩を押さえる。
 油断した。
 いったい誰がこんなことを。
 賞金稼ぎか? いや、この銃は軍用だ。
 ということは。
「路音? どうしたの?」
 異変に気づいた小雪が腕に触れる。直後、轟音とともに床が揺れた。
「――竜が!」
 吹き飛ばされた竜の巨体が、バラック小屋の薄い壁をいくつもなぎ倒して同じフロアに突っ込んできた。
 竜を力で吹き飛ばすなんて、やはり。
「――魔法士団」
 陸軍竜獣駆逐隊――“魔法士団”。
 魔法士だけで構成される、陸軍幕僚魔法士部直属の特殊部隊だ。
 思わず舌打ちした。到着が早すぎる。
 ああ、そうか。おれとソラを追っていた手勢が、そのままここへ――……。
「路音!?」
 ぐにゃりと世界が揺れた。一瞬、天地がわからなくなり、その場に膝をつく。
「は……、」
 急速に知覚が侵され始めた。自分を中心に世界が回り、まるで渦の中に放り込まれたようだ。
 じんわりと痺れるように、動きが、思考が、すべての自由が奪われていく。
「どうしたの? どこかケガをしたの?」
 小雪が慌てて顔をのぞき込んでくる。息がかかるほど近くで、灰緑色の瞳を見上げた。翠と銀色を混ぜた色。常春の中庭で見た、瑞々しい木々の葉の裏の色と同じだ。
 ――あれは、全部ウソだったの?――。
「――じゃない」
「え……?」
「嘘じゃ、ない」
 熱に浮かされるように、言葉がこぼれる。
「おれは、小雪に嘘をついたことは、一度もないんだ」
 自分はいったい何を言っているのだろう。どうしてこんな時にと思うけれど、止まらない。
 ああ、もしかしたらさっきの銃に、自白作用が――……。
「あの中庭で、小雪といると、少しだけ……呼吸が楽になる気が、した。だか、ら」
 舌がうまく回らない。
 まぶたが重い。体が熱い。
 とても、眠い――……。
「路音? どうしたの、しっかりして! ――彦ちゃん、彦ちゃん聞こえるっ!? すぐに来て、路音の様子が……っ!」
 泣きそうな声で端末に呼びかける小雪の肩に、ジインはすがった。
「おれのことは、いいんだ……」
 おれはもう、どうなってもかまわないから。
 だから。
「小雪、頼む……あいつを、ソラを逃がしてくれ。お願いだ……あいつは、おれの、大切な――……」
 小雪の体が強張る。フロアの奥で竜が起き上がった。傷ついた箇所から、しゅうしゅうと水蒸気が立ち上っている。脅威の再生能力で傷を修復しているのだ。
 ただ傷つけるだけでは竜は殺せない。『核』と呼ばれる箇所を魔法で破壊しない限り、竜は死なないのだ。
 再生能力が生きているということは、今の攻撃で『核』に致命傷は受けなかったようだ。
 けれど、このままではいずれ――……。
 目を細め、こちらを窺う竜に向かって、ジインは叫んだ。
「逃げろ、ソラ……!」
 このままでは、魔法士団に殺されてしまう。
 頼むから、早くどこかへ。
「逃げろ……逃げてくれ、ソラ!!」
 竜の双眸が、ふいに横へ逸れた。その鼻が、何かを探るようにひくりと動く。直後に、甲高い悲鳴がフロアに響き渡った。
 ……子どもの声?
「――ダメだ!」
「路音!」
 考える前に駆け出していた。
 無惨に潰れたトタン小屋の隅。テーブルの下で縮こまる少女と幼子の姿が見えた。
 自由が利かなくなり始めた足をむりやり動かして、転げるようにフロアを駆ける。
 小雪が背後で何か叫んだ。
 竜と子どもの距離が、あと数歩。
 その間に滑り込み、両手を広げる。
 大きく開かれた竜の牙が、目前で光った。
 ――ごめんな。
 結局、逃がしてやることもできなかった。
 なにひとつしてやれないまま、こうしておまえに殺されるんだ。
 鮮やかな青が視界に飛び込む。
 晴れ渡った空の色。
 いつか二人で見上げた、果てしない希望の色だ。
 おまえはもう、おれの知る“ソラ”ではなくなってしまったけれど。
 それでもおれは、おまえを――……。

 

「……――て、るよ」

 

 ぶつり、と何かが途切れる音が聞こえた。

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