031 白落

「ね。髪を洗ってあげようか」
 唐突にソラが言う。ひからびたパンとスープで簡素な食事を済ませた後のことだった。
「髪?」
「そう。手洗い場から少し先へ行ったところにお湯の出る洗面台があるんだ。出は悪いけど」
「髪を洗うって……そんなことしてる場合じゃないだろう?」
 仕切り布の向こうをちらりとうかがって、ジインは声をひそめた。
「このアジトを抜け出すって約束してからもう何日も経ってる。奴らの動きが読めないのはわかるけど、おれたちには時間がないんだ。これ以上は待っていられない。もう計画を変更して、強攻突破してでも――」
「大丈夫、わかってるよ」
 焦燥を露にするジインの言葉を遮って、ソラは声を落とした。
「連中がまとめて出払う日があるって言ったろ? それがやっと決まったんだ」
「! いつなんだ?」
「明後日か、遅くても明々後日。その時を狙って、ここを抜け出そう。だからその時までは気づかれないよう、大人しくしておいたほうがいい」
 待ちわびた朗報に胸が高鳴る。ぴっと人差し指を立て、ソラが話を続けた。
「ここから抜け出したら、まずは計画どおり旧市街を目指すだろ? 『彩色飴街』を抜けるのに二日、『貧困街』を抜けるのに一日かかるって話だったけど、賞金稼ぎの数からしてもっとかかる可能性が高いと思う」
「まだそんなにいるのか」
「最初の頃と比べればだいぶ少なくなったけどね。まあ、隠れ場所になりそうなデッドスペースや路地なんかは多めに調べてあるから、慎重に進めば何とかなると――なに? 」
 視線に気づいたソラが言葉を止める。きょとんと見返してくるソラを前に、ジインも同じく不思議そうに首を傾げた。
「おまえ……なんか変わった?」
「え、そう? どこがどんなふうに?」
「いや……おれにもわからないけど」
 どことなく感じる違和感の元を探して、ジインはソラの顔をまじまじと見つめた。
 まだ幼さの残る顔立ち。晴れ渡った空と同じ色の瞳。夏の日差しを縒ったような金色の髪。
 きょとんとこちらを見返す表情も、今までどおりのソラのままだ。
 見たところ特に変わったところはないようだが、どうもここ数日で急に大人びたような気がする。
「まあ、そういうことだからさ。最終的な細かい打ち合わせは後でするとしても、今日明日はまだ動けないし、だったら体を拭くついでに髪も洗ったらどうかと思って」
 髪を洗う。その魅惑的な提案を、ジインは胸の中で改めて反芻した。
 もう何週間も髪どころか体すら洗っていない。院の医療施設に収容された際は意識のない間に洗浄を受けたようだが、記憶にあるだけなら体と髪を洗ったのはおそらく、ソラを『ハコ』から連れ出したあの日が最後だ。
 身寄りのない『ノラ』として『貧困街』で長く過ごしてきたが、ジインはもともと西の第三区の生まれだ。衛生的に整った環境で育ったせいか、あるいはきれい好きだった母親の影響かはわからないが、ジインは自分が人と比べて清潔を好む質であることを自覚していた。
 今は状況が状況なだけに我慢せざるを得ないが、院で生活していた時は毎日シャワーを浴びていたし、風呂の無い廃工場で暮らしていた時でも夏場は水を浴び冬はしっかり体を拭いていた。汚れが酷い時にはなけなしの金を払ってまで銭湯にも行った。ジインが知る限り風呂に金を払うような『ノラ』は他にいなかったが、体を衛生的に保つことは病気の予防に効果的であることを知っていたジインはあえて衛生に金を使うことにしていた。
 清潔であることは、ジインにとって重要な要素の一つだった。
 意識した途端、急に匂いやべたつきが気になり始めた頭に手をやる。
「でも……」
 この部屋を出ることはあまり好ましい行動とは言えなかった。ここを出れば嫌でも連中と顔を合わせる羽目になる。『神の左手』とこれ以上関わり合いたくない。できることなら今すぐにでもここを離れ、連中との繋がりをきれいさっぱり断ち切りたい。この部屋を出ることで何かを目にし、何かを聞いてしまうことを、ジインは避けたいと思っていた。すでに十分と言えるほど関わってしまっているけれど、さらに深く踏み込むことは何としても回避したい。
 そのためには、できる限りこの部屋に籠る必要があった。ここにいれば連中と顔を合わせることもない。連中も利用価値のない魔法士を扱いかねているのだろう、あの拷問の一件以来、残とソラ以外の人間がこの部屋を訪れることはなかった。
 それに少なくともこの部屋に居れば、“監禁されている側”と“している側”という体裁が保てる。このアジトから出られない以上、この部屋に篭城を続けて“監禁されている者”という立場を守ることだけが、ジインの精一杯の抵抗だった。
 けれど言われてみれば、髪の汚れは我慢の限界にまで達している気がする。濡らしたタオルで丁寧に拭いてはいるけれど、本当は顔だって水できちんと洗いたいし、傷さえなければ熱いシャワーを思う存分浴びたいところだ。
 不衛生であることは、肩の傷にも悪い影響を及ぼしかねない。
「脱走なんてこれっぽっちも考えてませんっていうカモフラージュにもなるし、体の調子が悪くなければ洗いに行こう。きっとさっぱりするよ」
 清潔な水の感触と、石けんの少しつんとした匂いが脳裏をよぎる。
 旧市街に行けば、水道はない。清潔な水を使いたいだけ使える環境とは、あと二、三日でおさらばだ。
 ――もしかしたらこれが、人生最後のチャンスかもしれない。
 退け難い誘惑に負けて、ジインはこくりとうなずいた。
 それを見てどこか安堵したように肩の力を抜くと、ソラはにっこりと笑った。
「よかった。実はもう用意してあるんだ」

 

「ちょっとそこの洗面台まで」
 廊下に座り込む監視役の少年にそう告げて、ソラがジインを手招く。
 ソラに導かれるまま、ジインは部屋を後にした。
 鉄板に囲まれた薄暗い廊下を、ソラの後について歩く。ジインが歩いたことがあるのはすぐそこの手洗い場までで、そこから先は知らない。
 前方から来た若者とすれ違う。横目に感じた鋭い視線を、ジインはきれいに無視した。
 できれば誰とも顔を合わせたくない。手足を縛られているわけではないが、一応監禁されている側としている側なのだ。
 無駄なこととは思いつつも、ジインは頭半分背の低いソラの影に隠れるように身を屈めた。
「……あれ?」
 わずかな違和感に首を傾げる。
「おまえ、背が伸びた?」
「ふふん、気がついた?」
 得意げな顔でソラが振り返る。
「にょきにょき伸びてるよ。この調子だと、あと一ヶ月もしないうちにジインを追い越すね」
 あと一ヶ月。
 生きて、いられるだろうか。
 胸の奥にじわりと広がる冷たい不安から、ジインは無理やり目を逸らした。
「まったく。本当にでたらめだよな、おまえの成長は」
「ジインはあんまり変わらないよね。昔から大人っぽいというか、子どもらしくないというか、老けてるというか」
「うるさいな」
 目的の洗面台までは数分もかからなかった。改築か何かで取り残されたのだろうか。通路から枝分かれした狭く短い通路の先の、実に不自然なところに洗面台はあった。黄ばんでひび割れた、本当に小さな洗面台だ。少し体重をかけたらすぐにぽろりと壁からもげ落ちてしまいそうなほどに頼りない。お湯どころか、ちゃんと水が出るのかも疑いたくなるくらいだ。
 すでに用意していたとソラが言ったとおり、背もたれのある古びた椅子がぽつんと置かれ、そこにタオルがかかっている。
 促されるまま椅子に座り、頭を洗面台に預ける。傷が引きつりわずかに痛んだが、顔に出さないよう努めた。
「ええと、シャンプーがないから石けんだけどいいよね」
「汚れが落ちれば何でもいいよ」
 捻る蛇口が悲鳴のような音を立て、洗面台全体がごぼごぼと小刻みに揺れる。数秒の間を置いてけたたましく吹き出した湯を、温度を調整してからソラがすくって髪へとかけた。
 久々の湯の感触。濡れた髪に潜り込む指先が、たどたどしい手つきで髪を梳く。
「お湯、熱くない?」
「ちょうどいいよ」
 こんなふうに洗面台で人の髪を洗うなんて、ソラにとって初めてのことだろう。手のひらで泡立てた石けんをぎこちない手つきで髪に擦り込みながら、さらに泡立てていく。
 拙いながらも懸命なその手つきに、ジインは思わず微笑んだ。
 鼻先をかすめる、石けんの香り。頭皮をこする指の心地よさに、ふわりと心が軽くなる。
「こんな感じで大丈夫? 首痛くない?」
「大丈夫、気持ちいいよ」
「そう、よかった」
 閉じたまぶたの上に、安堵のため息が落ちてくる。
「昔はさ、よく洗いっこしたよね」
「ああ……廃工場のドラム缶に水ためてな。あと銭湯でも」
「銭湯のおっちゃん、元気かなあ。オレたちが『ノラ』だって気づいてたはずなのに、よく入らせてくれたよね」
「まあ、店じまいした後の仕舞い湯だったけどな。蛇口磨きを手伝うって条件でさ。金はきちんと払ってたんだから、こっちは一応客なのに」
「でも『ノラ』を入れてくれるところなんて他にはどこもなかったよ。逆に貸し切りみたいで楽しかったし」
「まあな」
 蛇口が再び悲鳴を上げる。湯は温かかったり冷たかったりと温度が不安定な上、派手な音の割に出が悪かった。そんな湯を手のひらに溜めては、髪にかける。それを何度も繰り返し、ソラは根気よく泡を洗い流していった。
 洗い残しがないか丁寧に確認し、湯を止める。
「はい、終わり。起きていいよ」
 タオルを被りながら頭を起こす。圧迫していた首筋が解放された途端、くらりと軽い目眩がした。
 汚れが落ちたかわりにぎしぎしと指どおりの悪くなった髪をタオルでよく拭いた後、石けんを借りてついでに顔も洗う。久々の泡の感触に心が躍る。部屋近くの手洗い場の氷のような水では手が痛すぎて満足に洗えなかった分、ジインは温かな湯でこれでもかというほど顔を磨いた。
 それほど汚れているわけでもなかったのに、髪と顔をすすいだだけでまるで気分が違う。
 吸い込む空気まで清々しく感じながら、生き返った心地でジインは部屋へと戻った。
 ソラがどこからか小型の固形燃料ストーブを運んできて火を入れる。オレンジ色の温かな火がゆっくりと燃え上がり、天板に置かれた鍋の水面からうっすらと蒸気が立ち始める。
「手を出して」
「?」
 髪をあらかた拭き終えたジインは、ベッドに腰かけて言われるままに手を差し出した。
 どこから借りてきたのかソラが爪切りを取り出したのを見て、
「そんなこと、自分でやるよ」
「いいから、じっとしてて」
 引こうとしたジインの手を、ソラは半ば強引に引き留めた。
 少し伸びすぎた爪をまじまじと見分して、ソラが慎重に刃を当てる。ストーブの温かな蒸気が満ち始めた部屋に、ぱちん、ぱちん、と、小気味よい音が響いた。
 刃とヤスリを上手く使って、ソラはジインの爪をひとつひとつ丁寧に整えていった。
「はい。じゃあ次、足ね」
「え? いいよ、足は」
「ついでだよ、ついで。せっかく爪切り借りたんだからさ。引っ掛けて剥がしたら大変だろ? オレも後で自分の切るし」
「じゃあおれも自分で切るよ」
「肩、屈むと痛むんだろ。いいからほら、足出して」
 何となく気圧される形で、ジインは渋々ソラに足を預けた。
 膝をつき、顔近くまで足を掲げて慎重に爪を切るソラを見下ろすのは、まるで召使いにかしずかれているようで何とも居心地が悪い。
 両足の爪を整え終えると、ソラは鍋の湯を洗面器に移して水を足し、床に置いた。
「はい、じゃあこっちの椅子に座って」
「今度は何?」
 少し高い位置にある簡易ベッドから壊れかけた丸椅子に移りながら、ジインが訊ねる。
「足湯。ジインの足、冷たすぎるよ。少し温めないと」
 ついでに洗ってあげるからと促され、裾を巻くって洗面器に足を入れる。冷えきった足の指先が、湯の温かさでじんと痺れた。
 湯に浸したタオルで膝下あたりまでを擦り、足先を湯の中で揉みほぐす。
 その心地よさに、ジインは思わずため息を吐いた。
 氷のようだった足先が、じわじわと温まっていく。
 洗い終えた足の指を、ソラは乾いたタオルで一本一本丁寧に拭いていった。
「っ、」
 タオルのこそばゆい感覚に、きゅ、と足の指が縮こまる。
「ごめん、くすぐったかった?」
「ん、少し」
「昔からくすぐられるの弱いよね、ジインは」
「おれが弱いんじゃなくて、おまえが鈍すぎるんだよ。どうして脇腹くすぐられて平然としていられるんだ、おかしいだろ」
「えー? オレは普通だよ。ジインが敏感すぎるじゃない?」
「いや、おれの方が絶対普通だ。試しに今度残の脇腹くすぐってみろよ。絶対“うぎゃっ!”って言うから」
「残が“うぎゃっ!”なんて言うかなあ」
「言う言う。絶対言う。3センチぐらい飛び上がって“うぎゃっ!”って言う」
「残が3センチ飛び上がったら、天井に頭ぶつけるんじゃない?」
「ぶつけるどころか、ちょっとめり込むかもな」
 他愛ない笑いが部屋に満ちる。久々の穏やかな空気に、ここがテロリストのアジトだなんて忘れてしまいそうだ。
 足を拭き終えたソラが、にっこりと笑いかける。
「はい、終わり。せっかくだから体も拭こう」
 使い終えた湯をソラが捨てに行く間に、右肩を気づかいながら自力でシャツを脱ぐ。普段の動作にあまり不自由はなくなったものの、服の脱ぎ着には未だ手間取ることが多い。
 入れ替えた湯で濡らしたタオルを固くしぼり、ソラが腕や首筋を拭いていく。体は今までにも何度か拭いてもらっているので、だいぶ手慣れてきたようだ。
「包帯、一度取るね」
「ああ」
 体に巻かれた包帯を、ソラの手が慎重に解いていく。傷はちょうど右胸と右肩の中間あたりにあった。もしこれが左側だったら、心臓のすぐ上を貫かれて即死だったであろう。大きな血管や骨や臓器が傷つかなかったのは不幸中の幸いだ。
 あてがわれたガーゼをそっと取ると、ソラの動きがわずかに止まった。
 乾いた傷口を囲む、大輪の黒い花。
 透ける肌の内側から浮かび上がるその痣は、竜毒によって刻まれた死の刻印だ。
 ソラの視線が数秒そこに注がれ、ついと逸れる。
 傷を上手く避けながら、ソラは丁寧に体を拭いていった。
 時々ソラの手がわずかに止まり、肌に視線を強く感じる。その度に、ジインはわずかに緊張した。
 ジインの体には、桐生によって刻まれた傷痕がいたるところに散らばっている。
 手当を受ける時や体を拭く時はしかたなく肌を曝しているが、あまりソラに見せたくない。
 誰に何故つけられたのか。それをソラに知られるような事があってはならない。
「はい、じゃあ立ってー」
「?」
 立ち上がったジインのスラックスに手をかけると、ソラはそれを下着ごとするりと躊躇いなく引き下ろした。
「おわっ!? ちょっ、なにすんだ!」
 驚愕してソラの腕を掴む。ソラがきょとんとこちらを見上げた。
「なにって、拭くんだけど」
「拭く!? い、いいよそこは!」
「えー? だって下着も新しいのに替えるんだよ? この先いつシャワーを浴びれるかわからないし、ついでだから全部きれいにしておきなよ」
「拭くなら自分で拭く! てゆうか恥ずかしいだろこんなことおまえにやらせるとか!」
 スラックスの裾を掴んで顔を赤らめるジインを見上げて、ソラは呆れたように笑った。
「何を今さら。だってジインの意識がない時の下の世話は全部オレが」
「そっそれとこれとは話が別だろ! とにかく、拭くなら自分で拭くから手を放してくれ!」
 うろたえながら、ジインはソラの手を引き剥がそうとした。
 けれど、ソラは動かない。
「おい、ソラ?!」
「――オレが拭いたら、嫌?」
「……は?」
 予想外の台詞に思わず思考が固まる。
 ジインをまっすぐに見上げて、ソラははっきりと言った。
「嫌じゃないなら、このままオレにやらせて」
 逃げ場のない状態でまっすぐな眼差しを突きつけられ、ジインは困惑しきったまま瞬きを繰り返した。
「や……やらせてって……体、拭くのを?」
「うん。嫌?」
「べつに、嫌ってわけじゃない、けど――……」
 どうして、という言葉を、ジインは呑み込んだ。
 ソラの眼差しが、あまりにもまっすぐだったからだ。
 なぜソラが自分の体を拭きたがっているのか、その理由はまったくわからない。
 けれど、じっとこちらを見上げてくる眼差しはただまっすぐで、ひたすらに真摯だ。
 その瞳はまるで、ジインの体を頭の天辺から足の爪先にいたるまで1ミリも拭き逃すことなくタオルで清めることが、天から与えられた使命であると信じきっているかのようで。
「――いいや、もう。好きにしろ」
 観念して、ジインは手を放した。
 どういう理屈かはわからないけれど、どうやらこの体を拭くことがソラにとって何か特別な意味を持っているようだ。
 依然頭の中は混乱しているけれど、この眼差しを無下にしてまで拒む理由も見当たらない。
「あ、べつにジインの裸にコーフンしたりしないから安心して」
「当たり前だ、ばか」
 あっけらかんと付け足された軽口に思わず吹き出して、金髪の頭を軽くはたく。少しだけ心が軽くなったところで、ジインは腹をくくって潔く下着から足を抜いた。
 心臓がいつもより速く脈を打つ。少し緊張していた。当たり前だ。銭湯ならともかく、一糸まとわぬ姿などあまり人に見せるものではない。
 それにいくらソラと言えど、普段人目にさらさないところに触れるなんて。
「体が冷えるといけないから、すぐに済ますね」
 自分の肩に掴まらせると、ソラは温かなタオルでごしごしと肌を拭いていった。
 変に意識しないよう、ジインはただ呼吸だけに集中した。
 温かな灯りがソラの髪をぼんやりとオレンジ色に染めている。
 ストーブと足湯のおかげか、あるいは気恥ずかしさで顔が火照っているせいか、寒さはあまり感じない。
「ごめん、足ちょっと開いて」
「えっ? あ、ああ」
 ソラの肩に置く手に力がこもる。腰が引けそうになるのをどうにか堪えた。
 何度もタオルをそそぎ、ソラはこれでもかというほど丹念に肌を清めていく。
 その丁寧さに、次第に気恥ずかしさよりすまない気持ちが膨らんでいった。
「――こんなところにも傷があるんだ」
 ソラの呟きに、ぎくりと身を固くする。
 傷跡のことなどすっかり忘れていた。いったいいつ、どんな状況で、誰から受けた傷なのか。下着で隠れるような場所に残る傷など、ソラでなくても疑問に思うのは当然だろう。
 胴にある傷ならある程度の言い訳が利くが、こんなところの傷、同じ言い訳で通用するだろうか。
 問いただされやしないか内心ひやひやしたが、ありがたいことにソラはそれ以上追及してこなかった。
 一言呟いた後は黙り込んだまま、ソラは淡々とジインの体を拭いていった。
 まるで、髪の一本から爪の先まであるべきものがあることを一つ一つ目で確かめるように。
 色を、形を、傷跡を、すべて残らず記憶するように。
 丹念に、ただ黙々と、ソラはジインの体を清めていった。
「はい、おわり」
 その一声で、いつの間にか止めていた息をほっと吐き出す。
 用意してくれた新しい下着に足を通し、スラックスを履く。剥き出しだった傷に軽く消毒をして、清潔なガーゼを当てる。幅の広い包帯を巻いて、傷を再び丁寧に隠した。
 洗いたてのシャツに腕を通している間に、ソラが枕とベッドのシーツを新しいものに換えてくれる。
 髪を洗い、体を拭き、新しい服に袖を通す。
 たったそれだけのことで、閉ざされた空間で鬱屈していた心に新鮮な風を通したようだ。
 竜毒に対する不安すら、わずかに薄れたような気がした。
 まるで体ごと新しいものに取り替えたような、晴れやかな心持ちだ。
「ああ、さっぱりした」
 清々しい気分で寝台に横になる。かすかに香る洗剤の清潔な匂いにうっとりと目を閉じると、全身が気だるく疲労していることに気がついた。激しい運動をしたわけでもないのに、どうやら想像以上に体力が落ちているらしい。少し眠る必要がありそうだ。
「どう? さっぱりした?」
 後片付けを終えたらしいソラが、天井を遮って顔をのぞき込んでくる。
 その顔に、ジインは久々に晴れやかな笑みを向けた。
「ああ。すごく気持よかった。ありがとな」
 雲間からとつぜん差した光を見上げた時のように、ソラがまぶしそうに目を細める。
 その瞳の奥に、ほんの一瞬かげりが見えた。
 瞬きの間に消えたその影が、意識の端に引っかかる。
「……ジイン」
 ひどく真剣な面持ちで、ソラが枕元に手をつく。重みで寝台がぎしりと軋んだ。
 ここ数日で急に大人びた、静かな眼差し。
 初めて見るようなその表情に、心が騒ぐ。
「……なに?」
 すっと顔が近づく。驚いて反射的に目をつぶると、額と額が触れた。
 温かな息が唇にかかる。
「――ごめん」
 え?
 ぱしん、と小さな音がして、左腕に軽い痛みが走った。
 まぶたを開いて、視線を巡らす。
 ソラの手に、簡易注射器のシリンジが握られていた。
 東では手に入らない高品質なそれは、沢木が用意してくれた薬類の中の一つだ。
「な……!」
 急いで起き上がろうとした肩を、ソラの手がやんわりと押しとどめる。
「少し眠ったほうがいい」
 目と目が合う。有無を言わさぬ眼差しと肩を押さえる腕の強さに愕然として、ジインはただソラを見つめた。
 ――催眠剤……?
「どうして……」
 数秒前まで温かなもので満たされていたはずの胸に、悲しみと疑念が広がった。
 なぜ。どうして、こんなことを。
 静まり返った水面に波紋が広がるように、ゆらゆらと心が波立っていく。
「ど……うして……っ!」
「どうしても……」

 

「どうしても、あきらめられないんだ」

 

 ソラの声音が硬くなる。空色の双眸は、いつの間にか断固たる決意で静かに燃えていた。
 ――どうして気づかなかったのか。
「どけ」
 手を払いのけて無理やり起き上がろうとする。不意に抱きすくめられ、そのままベッドに押しつけられた。
「どけ、放せ!!」
 服を掴み、体を引き剥がそうと必死でもがくも、自分より小柄なはずのソラの体はびくともしない。
「大人しくここにいて、少しの間眠っていて」
 ――このまま、薬が効くまで押さえつけておくつもりか。
「こ、の……!」
 怒りを込めて、その背中に爪を立てる。しゅんしゅんと蒸気の充ちる部屋に、しばしの間、もがく衣擦れと荒い息づかいが響いた。数秒もしないうちに息が上がる。天井から跳ね返る苦し気な吐息は、すべて自分の唇から出たものだ。ソラの呼吸は少しも乱れていない。
 たとえ渾身の力で抗っても、自分の筋力では“ヒトガタ”の怪力に叶うはずがない。
 このままじゃだめだ。
 上がる息を落ち着かせて、ジインは意識を集中した。
 ここはピアナ濃度が低い。けれど、辺り一帯からかき集めれば――。
 何度目かの深呼吸の後に、息を止めまぶたを閉じる。
 3、2、1――……、
「ッ!」
 体の重心をずらすと同時に、簡易ベッドに思いきり横殴りの衝撃を与えた。
 ぐらりと体が傾ぎ、ベッドごと床に倒れる。けたたましい音とともにストーブが揺れ、こぼれた湯がしゅうしゅうと蒸発した。
「危な、ッ!」
 揺れるストーブに気を取られたソラを押し退けて立ち上がると、ジインは裸足のまま通路へ飛び出した。監視役の制止をすり抜けて、通路を駆ける。灯りの乏しい薄闇の中、氷るように冷たい鉄板の上を、洗ったばかりの素足でかまわずひた走る。
 何人かの人間とすれ違いざまにぶつかる。怒号と制止の腕をふり切って、ジインはただ闇雲に駆けた。
「う……」
 ぐにゃりと足元が揺れた。足がもつれて転びそうになるのを壁にすがって免れる。
 酒を飲んだ時のような酩酊感がじわりと思考を滲ませて、世界がゆっくりと回り始める。
 全身を取りまく目眩を堪えながら、壁に手をついてジインはなお進んだ。
 こんな状態でいったいどこへ行くつもりなのか、自分でもわからない。
 頭の中は真っ白だ。
 どうすればいい。どうしたら、いい?
 わからない。知らない。
 けれど、とにかく離れたかった。
 あの場所から。
 あの、ソラから。
 できるだけ遠く、一歩でも遠く、離れたかった。
 だって、ソラが。
 こんな。
 どうして。
 あんなソラ、おれは知らない――……。
 こまぎれの思考がぐるぐると頭を廻る。走ったせいで上がった脈拍が、薬の廻りを余計に速めているようだ。
 闇の先に白く光る出口が見えた。その明りを目指して、必死で足を運ぶ。
 次第に近づく光の中に見えてきたものに、歩みが止まった。
 煌煌と照らされた大きな広間に、所狭しと並べられた武器。
 その間を行き来する、武装した『神の左手』のメンバーたち。
 皆一様に目を爛々と光らせて、出立の時を今か今かと待ち構えている。
 その装備をざっと見回して、ジインは臓腑が落ち込むのを感じた。
 ――無理だ。
 こんなもので、魔法士団に勝てるわけがない。
 魔法士の真の恐ろしさは、一定のピアナ濃度の元、複数名の連係によって発揮される。
 手負いの魔法士をたった一人、こんなピアナ濃度の低いところに捕らえることに成功したからといって、魔法士を甘く見るのは間違いだ。
 『ハコ』は彼らのテリトリー。ピアナクロセイドが充満する空間で、魔法士団に勝てるはずがない。
 わざわざ殺されに行くようなものだ。
 バカな事はやめろ。命を無駄にするな。
 こんな事をしたって、何の解決にもなりはしないのに――……。
 言いたい言葉が次から次へと浮かぶけれど、唇は虚しく開閉するだけで、声にならない。
 メンバー達がこちらに気づく。その中の数人が、鋭い視線とともにこちらへ銃を向けた。
 こいつらも、死ぬのか。
 むざむざ殺されに、あるいは誰かを殺しに、『ハコ』へ行くのか。
 誰かを、殺しに。
 小雪。
 沢木さん。
 北見――……。
「おい、貴様そこで何を――」
 音が滲む。滲んで、遠ざかる。
 視界が、世界が回る。
 驚いた顔の残が、こちらへ駆け寄ってくる。
 その肩ごしの広間の奥に、赤い髪の女を見つけた。
 そちらへ一歩踏み出しかけて、がくんと膝が折れる。
 床に突っ伏す寸前に、背後から伸びた腕に抱きとめられた。
 ふわりと体が浮く。ゆらゆらと揺れながら、まぶたごしの白い光が遠ざかる。
 横たえられる感触に重いまぶたを無理やりこじ開けると、そこはすでに見慣れた天井の下だった。
 朦朧とした意識の中で、唇を強く噛む。
 わずかに明瞭さを取り戻した世界で、無言のまま毛布をかけるソラの腕を掴んだ。
「行くな」
 ばらける意識をかき集め、最後の力を振り絞って、ジインはソラを引き寄せた。
「行くな、ソラ……」
 データなんていらない。助からなくてもいい。だから院に手を出すな。
 『ハコ』へ乗り込むなんて、そんなことをしたら、おまえがまた捕まってしまう。
 おれがどんな想いでおまえを助け出したと思ってるんだ?
 そのすべてを無駄にするつもりか?
 声にならない想いが、心の底から浮かび上がっては目眩の渦へと消えていく。
 指先にいくら想いを込めてみても、こちらを見つめるまなざしは揺るがず硬いままだ。

 

 おれはもう何もいらない。
 おまえさえそばにいてくれれば、それでいい。
 ただそれだけを望んでいるのに。
「ど……して」
 どうして、わかってくれないんだ。

 

 無言のまま、ソラがゆっくりと後じさる。
 強く掴んだはずの手が、指先を虚しくすり抜けていく。
 温もりが離れ、自分のものではなくなったような腕がシーツの上にぼとりと落ちた。
 手を伸ばそうにも、もう体が動かない。
 意識を保つ術も、ない。
 何という手酷い裏切り。
 あんまりだ。ひどすぎるよ、ソラ。
 声にならない言葉の代わりに、涙がこめかみを伝った。
 たった一つの想いが、届かない。
 その悲しみが込み上げて、視界を滲ませる。
「い……く、な……」
 行くな。行くな。お願いだ。
 頼むから、行かないでくれ――。
 手の届かない空色を仰ぎながら、ジインは為す術もなく深い眠りへと引きずり込まれていった。

 

 ジインの呼吸が深くゆっくりなものに安定する。完全に眠りに落ちたことを確かめて、ソラは深いため息を吐いた。
 剥き出しの白い腕に目をやる。薬を打ち込まれわずかに赤くなった部分を指先でそっと撫で、自己嫌悪を噛み締める。
 無理やり薬で眠らせるなんて。仕方がないとはいえ、こんな強引なやり方を選択するしかなかったことに、深い罪悪感を覚える。
 けれど、こうでもしないとジインは自分の姿が見えないことをいぶかしみ、そしてすぐに感づくだろう。もしかしたら、力づくでアジトを抜け出し、後を追ってくるかもしれない。
 力なく横たわるその腕を楽な位置に戻し、そっと毛布をかける。こめかみに光る涙を指先で丁寧に拭った。

 

「……ごめんね」

 

 必ず帰ってくるよ。
 絶対にオレが助けてみせるから。
 だから、ここで待っていて。

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