038 さよなら、みたいだ

 非常用とは思えないほど無駄に明るい階段を、残の肩を借りながら一歩ずつ上がる。
 行く先を見上げると、ロックされているはずのヘリポートの出入り口がぽっかり開いているのが見えた。
 血を失い過ぎたせいで体が重い。
 失った右脚から滴る血が、階段に赤い跡を残していく。
 冷たい外気が頬にぶつかった。新鮮な風が、汗ばんだ肌から熱をさらっていく。
 だだっ広いヘリポートには、緊急脱出用ヘリコプターが数機停まっていた。
 ヘリポートをぐるりと囲むLEDの小さな光が、そこから先が空中であることを告げている。
 空はすでに白み始めており、白い雲の合間に見える星々は今にも消えてしまいそうだ。
 ロックされたヘリにはすでに数名のメンバーが群がり、どうにか動かせないかと手を尽くしている。
 慌ただしい足音とともに、背後の出入り口からジインが転がるように飛び出して来た。振り向きざまに階段へ向かって何かを投げつける。
 階下から爆音が聞こえるより早く、ジインはドアの横に設えられたパネルにカードを通すと、現れたキーをすばやく操作した。
 電子音とともにドアがロックされる。
 こちらに背を向けたまま、ジインはパネルにすがるようにして壁に寄りかかった。
 肩が上下に揺れている。壁に跳ね返る息が荒い。
 血とすすで汚れたコートの背中に、ソラは自分の状態も忘れて足を踏み出した。
「ジイン、」
「来るな」
 固い声に、びくりと動きが止まる。
 呼吸を整えるように深呼吸を繰り返すと、ジインは体を壁に預けたままゆっくりと振り返った。
 汗ばんだ額に、乱れた髪。苦しげに細められた双眸の下には、疲労がくまとなって黒々と刻まれている。
 左手首には、もし目覚めても後を追ってこれないようにと、ソラがはめた手錠がそのままぶら下がっていた。
 今にもその場にくずおれそうな体を背後のドアへと預け、一呼吸置いてジインは言った。
「アジトが落ちた。軍が、攻めて来たんだ」
 しん、とあたりが静まり返る。ひときわわびしい音を立てて、風がヘリポートを駆け抜けた。
「生き残った奴はほとんどいないと思う。アジトは燃えた。イーザウも死んだよ」
 イーザウが、死んだ?
 ジインの口から告げられた突然の凶報に、ソラはレインネインを振り返った。
 レインネインは眉一つ動かすことなく、ただジインを見つめている。
 その顔には、悲嘆も落胆も見当たらない。
 レインネインに向けて、ジインが何かを投げてよこす。魔法の補助を受けたであろうそれは、横風にさらわれることもなくレインネインの手に収まった。
「それでヘリのロックが解除できる。今夜は雲が多いから、大陸の側面を飛べば逃げ切れるかもしれない。運転は緊急避難用の操縦補佐機能がついているからそれで何とかなるだろう」
「……なぜこんなことを?」
 双眸の鋭さはそのままに、レインネインが嗤う。
「テロリストとは関わり合いたくないのだろう。なぜ今になって手を貸す?」
「あんたたちに手を貸すつもりはない」
「では、これはいったい何の“つもり”だ? 何かの取引か?」
「テロリストと取引をするつもりもない。これはただの脅迫だ」
「脅迫?」
 ジインが不敵な笑みをひらめかせる。ゆっくりと上がったその手には、銃が握られていた。
 メンバーたちの銃口が一斉にジインを狙う。
 思わず飛び出しかけたソラを、腕力とまなざしで残が押しとどめた。
 自分を狙う銃口には目もくれず、まっすぐにレインネインを見据えたまま、ジインは言った。
「ソラを連れて今すぐここから離れろ。さもなくば、あんたを撃つ」
「え……?」
 一度もこちらを見ようとしないジインをソラは凝視した。
 嫌な予感にあおられて、心臓がおかしな音を立て始める。
「これ以上ここへ留まることは無意味だ。あんたたちは魔法士団に勝てない。アジトは消滅した。『神の左手』の意志を継ぐものはもういない。あんたたちがここで全滅すれば、それで『神の左手』はおしまいだ。……本当はそのほうがいいんだろうけど」
 何かを迷うように、その声がわずかに沈む。
「でもそれは、おれが決めることじゃない」
 迷いを振り切るように再び視線を上げると、ジインはよく通る声で言った。
「だからおれは、おれの都合のためにあんたたちを利用することにした。もう一度言う。ソラを連れて、今すぐここから離れろ」
 沈黙が流れる。
 臙脂色の双眸は、事の真偽を確かめるように、あるいはその裏側にあるものを見定めるように、じっとジインを見据えたまま動かない。
 メンバーの誰もが、まるで体を縫い止められたかのように動きを止めていた。
 ひときわ強い風が吹き、ジインのコートをはためかせ黒髪を揺らした。
「……子どもたちは、逃がしたよ」
 ジインの言葉に、レインネインの片方の目元がほんのわずかにぴくりと動く。
 足にかすかな振動が伝わった。階下に多数の気配が集まり、階段をじわじわと上がってくる。
 重い沈黙の後、レインネインはジインから視線を逸らさないまま、カードキーを肩越しに背後へと渡した。
「――撤退だ」
 それを合図に、メンバーたちが動き出す。カードキーを受け取ったメンバーが慌ただしくヘリへと駆け込むのを見届けたジインのまなざしが、ようやくこちらへ向いた。
 夜空より鮮やかな夜空色の瞳が、まっすぐにソラを見る。
「約束を、破ったな」
 どくん、と心臓が跳ね上がる。怒りのこもった眼差しに射抜かれて、瞬きもできずにソラはその場に凍りついた。
 一緒にアジトから逃げ出すと嘘を吐いて。
 決して『神の左手』とは関わらない、約束は必ず守るからと偽りを重ねて。
 騙して油断させ、挙げ句に薬で無理やり眠らせた。
 怒られて当然だ。嫌われたって仕方ないと思う。
 でも……。
「おまえなんか、もう弟でも何でもない」
 硬い声音で言われた言葉に、ずしりと臓腑が沈み込む。
 覚悟していたはずなのに、情けないほどに呼吸が乱れ、おかしいほどに手が震えた。
 無意識に、硬い防弾衣の上から揃いの鍵を押さえる。
 謝らなくちゃ。
 でも、なんて?
 言葉を探して黙り込んだソラの耳に、ジインの声が飛び込む。
「だから、行け」
 数秒前の言葉と相反するように、ジインがふわりと笑う。
「おれのことなんか忘れて、どこでも好きなところへ行って、好きに生きろ」
「……え……?」
 ジインが笑う。今まで何度も自分に向けられてきた、あの透明な笑顔と同じ顔だ。
 まるですべてを許すような、あるいはすべてを包み込むようなまなざしで、ジインは言った。
「ただし、人の道は外れるな。やっていいことと悪いことの分別はわきまえろ。どんな時でも食事はちゃんととれ。辛くても生きることをあきらめるな。あと、不死身だからって体を疎かにするなよ、ちゃんと自分を大切にしろ。それから、できるだけ色んな場所へ行って、たくさんの人と会って――」
 ふいに言葉をとぎらせて、ジインが苦笑いする。
「だめだな。“好きに生きろ”なんて言いながら、注文ばかりだ」
 ジインの言葉を、まるで見知らぬ国の言葉でも聞くような気持ちで、ソラは聞いていた。
 耳には届いている。
 でも、理解できない。呑み込めない。
 鼓膜のあたりでひっかかって、まったく頭に入ってこない。
 まるで、頭が理解することを拒んでいるようだった。
「そうだ、海を見に行けよ。ああ、きっと広いんだろうなあ。見渡す限りの水たまりなんて、見たらきっとスカッと――」
「なに、それ」
 ようやく声が出た。震える唇をやっとのことで動かして、絞り出すように言う。
「ジイン、なに言ってるの? 全然わからないよ、なんで急にそんなこと言うんだ」
 “おれのことは忘れて”?
 “好きに生きろ”?
 どうして今、そんなことを言うんだ。
 そんなの、そんなのまるで――。
「ソラ、」
「言ってること、全然、わからない。やめてよ、そんな……そんな、さよならみたいなこと」
「みたいな、じゃなくて、さよならなんだ」
 息が止まる。世界のすべてが、止まった気がした。
 ジインの髪が風に揺れ、コートがはためく。
「さよならなんだよ……ソラ」
 “サヨナラ”。
 “さよなら”?
 “さよなら”って、なに?
 それは、いったい、どういうこと――。
 すっと表情を引き締めると、ジインはよく通る声で言った。
「魔法士団はおれがここで食い止める。増援が来ないうちに、早く行け」
「――嫌だ」
 声が震える。むりやり足を踏み出し、がくりと膝をついた。残が体を支えてくれる。その腕を無視して、ソラはジインににじり寄った。
「嫌だよ。なんで? なんでジインを置いていかなくちゃいけないんだ。そんなことできない。逃げるなら一緒に逃げればいい!」
「ただ逃げるだけじゃ、そこのヘリですぐに追いつかれる。誰かが奴らを止めないと、」
「だからそれがなんでジインなんだよ!!」
 四方八方からじわじわと迫りくる現実を拒絶するように、ソラは叫んだ。
「他の誰かが残ればいい、ジインはこの作戦と関係ないだろ?! ジインが残る必要なんてない!!」
 魔法士であるジインでなければ、魔法士団は止められない。
 それは先ほどの戦闘で嫌というほど思い知らされた事実だ。
 けれどその事実を胸の奥へ押しやって、ソラはまるでだだをこねる子どものように叫んだ。
「ジインを置いて逃げるなんてできない……ジインが残るなら、オレも――!」
 ソラの言葉を遮るように、背後からヘリのエンジン音が上がった。プロペラが回り始め、ばりばりと空気を切る音が辺り一帯に響き渡る。
「レインネイン」
 意思を含んだ声でジインが静かに呼ぶ。二人のやりとりを黙って見ていたレインネインが、くるりと背を向けた。すれ違い様にレインネインと視線を交わしたメンバーたちが、背後からソラを捕らえる。
「なっ、なにすんだ、放せ! 放せよ!!」
 数人がかりでヘリの方へと引きずられる。片足を失ったせいで、うまく体を動かせない。それでも力の限りに暴れて、ソラはメンバーたちの腕を振り払った。
 這いつくばって、床にしがみつく。
 ダメだ。絶対にダメだ。
 ジインを置いていくなんてできない。
 そんなこと、できるはずがない。
 だって、助けるって誓ったんだ。
 『ハコ』からデータを盗んで、竜毒の治療法を探し出して。
 いつか一緒に空へ出て、世界中をまわるって。
 二人で、約束したじゃないか。
「ジイン――ッ!」
 静かにこちらを見つめていたジインが、ゆっくりと腕を上げる。
 握ったままの銃のグリップで、ぐい、とシャツの襟を広げた。
「ッ、」
 あらわになった白い首筋。
 その付け根に、昨日まではなかったはずの漆黒の痣が浮かんでいた。
 薄く大きな花びらを幾重にも広げた花のように見えるその黒が意味するのは――。
「さよなら、なんだ……わかるだろう?」
 その言葉に、ぐぶりと心臓を掴まれる。
 まるで水銀でも流し込まれたように体の芯が冷え、手足が固まっていった。
 わかるだろうと、あえて理由を口にせずに、ジインは微笑んだ。
 ああ、どうして。
 どうして、こんな時に。
 そんなに、きれいに微笑むのだろう。
 呆然としている隙に、腕を背中でひねり上げられる。さらに首をがっちり抱え込まれた状態で、ソラはずるずると引きずられていった。
「はな、せ……!」
 ばくばくと心臓が鳴る。冷たい汗が背筋を流れた。
 抗いたいのに、がちがちと歯の根が合わず手足に力が入らない。
 勢いを増したプロペラの音に急かされるように、メンバーたちの足が速まる。
「嫌だ……ダメだ……!! ジイン!!」
 数人がかりでヘリに投げ込まれ、床に押さえ込まれる。
 肺を圧迫され、みしりと骨が軋んだ。
「ジ、イン……ッ! いやだ、放せ!! ――ジイン!!!」
 冷たい鉄の床板から、エンジンの唸りが伝わる。機体がぐんと浮かび上がるのがわかった。
「――ッ!!」
 ぎり、と歯を食いしばり、鉄板に爪を立てた。背骨が軋むのもかまわずに、ソラは押さえ込まれた状態から無理やり顔を上げた。
 開け放たれたドアから、小さな光に縁取られたヘリポートが見えた。
 闇にとけ込む小さな人影が、見る間に遠ざかっていく。
 こちらを見上げて微笑みを浮かべた唇が、何かささやいた。
 そして。
「あ……」
 透明な笑顔が、流れてきた雲の向こうに消えた。

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