040 Lead me to the eternity

 ごう、と炎が迫り、灼熱の赤が視界を埋める。
 けれどその熱は、三重に描かれた術式に阻まれてこちらまで届くことはない。
 炎の向こうから、数名の魔法士が飛びかかってくる。一番内側の術式まで入り込んだその体は、そこで急に動きを鈍らせた。
 その隙を狙って『支柱晶』を薙ぐ。術式の外まで吹き飛んだ魔法士に力を“繋ぎ”、ついでに敵方の炎を巻き込んでそのまま敵陣へと押し返した。
 炎の向こうから、くぐもった悲鳴が上がる。
 大きく弧を描いた『支柱晶』を基本の構えへと戻して、ジインはゆっくりと息を吐いた。
 効率の悪さと扱いの難しさから、魔法士団は戦闘に式術を取り入れていない。
 もちろん標的が式術を使うことなど想定外だ。
 だからこそ、ジインは式術に目をつけた。
 他の魔法士よりコントロールのいい自分であれば、きっと式術を効果的に使うことができる。
 そう思ったジインは、魔法院で他者の目を盗みながら式術の体得にいそしんだ。
 本来複数名での連携が必要な魔法士がたった一人で戦うには、その場のピアナクロセイドを掌握できるか否かが勝負の明暗を分ける。
 この術式内は、自分のテリトリー。気を抜きさえしなければ、弾丸も受け流せる。
 床に描かれた術式の要を狙って無数の小さな『支柱晶』の欠片が飛んでくる。瞬時に身をかがめると、ジインは床から数センチの位置で『支柱晶』をなぎ払い敵方の『支柱晶』を粉砕した。
 背後から別の気配が襲いかかる。銃の柄の一撃を振り向きざまに『支柱晶』で防ぐと、ジインは相手の鳩尾を蹴り飛ばした。
 横から飛びかかってきた別の兵士も『支柱晶』で打ちのめし、術式の外へと蹴り飛ばす。
 吹き飛んだ兵士は、ヘリにぶつかってべしゃりと床へ倒れた。
 累々と転がる負傷者に背を向けると、ジインは『支柱晶』を構えて魔法士たちをねめつけた。
 こめかみを汗が伝う。しっかりと立っていたはずの体がふらりと傾いで、ジインは思わずよろめいた。
 頭の中に綿でも詰め込まれたように、平衡感覚がおかしくなっている。
 あと何分保つだろうか。
 体の震えを隠し、呼吸の乱れを悟られぬよう必死で息を抑えながら、ジインは気を抜くとくずおれそうになる足に力を入れた。
 がんがんと響く頭痛で酷くかすみ始めた目を、わずかに空へと向ける。
 だいぶ明るくなってきた。ソラたちは、うまく逃げおおせただろうか。
 “いやあ、相変わらず綺麗な杖さばきだね。思わず見蕩れてしまうよ”
 まるで踊っているみたいだ、と場違いに明るい声が言う。
 スピーカー越しに響き渡るその声に、ざわりと総毛立った。
 嗤いながら手にしたナイフで胸を引き裂き、底に隠した恐怖を無理やり引きずり出すような、その声。
 “生きながらえているだけでも快挙なのに、竜毒を受けた後にそれだけ動けるなんて、さすがぼくが見込んだだけのことはある。それとも、竜としては出来損ないだった弟くんの竜毒にはきみを責め殺すほどの威力がなかったのかな?”
 裏側から悪意の滲む声音に、ジインは全身を絡めとられたようにその場から動けなくなった。
 違う。落ち着け。
 こんな時間に、あの男がここにいるはずがない。
 おそらくは、監視カメラを介してこちらを見て、魔法院から電波を介して声を飛ばしているのだろう。
 あの男は、ここにはいない。
 けれど……。
 “それとも、きみが天然の魔法使いだからかな? どちらにせよ、きみの体をじっくり調べてみなくちゃね。脳や脊髄、臓器も全部、隅から隅まで何もかも……奥の奥までね”
 隠しきれないほどに呼吸が乱れる。嫌な汗が背筋を流れた。
 何かのスイッチでも押されたように体が激しく震え、鼓動が跳ね回る。
 ダメだ。この声を聞くと、どうしても、体が――……。
 “さて、どうしようかなぁ”
 ゲームの次の一手でも考えるように、楽しげに桐生が言う。
 そう、この男はいつもそうだ。
 いつだって、何事にも本気でかからない。
 まるで目の前のすべてが手遊びのように、気まぐれに弄ぶのだ。
 手の中の駒が、ぼろぼろになって壊れるまで。
 “魔法士兵は直ちに後退。前衛を銃器兵に切り替え、ヘリポートへのピアナクロセイドの供給を停止する”
 その言葉に、ジインはどすんと臓腑が落ち込むのを感じた。
 ピアナクロセイドの供給が止まれば、魔法士はなにもできなくなる。
 ――ここまでか。
 術式の真ん中から、ジインは、じり、と後じさった。
 すでに魔法の補助なしでは足下さえおぼつかないこの体で、ヘリポートの端まで駆けるのにいったい何秒かかるだろう。
 ここから空中までの距離を視界の端で目算しつつ、服の上から揃いの鍵を押さえる。
 飛空の術を使えるほどの気力はすでにない。
 地面に体が叩き付けられるなんて、そんな痛そうな終わり方、したくなかったけど。
 それでも、あの男に捕まるよりはマシだ。
 ねっとりと絡み付くような嗤いと、硬い指の感触が傷跡の上によみがえる。
「っ、」
 背筋を冷たいものが走り、ジインは身震いした。
 あの男に捕まるのだけは、嫌だ。どうしても、嫌だ。
 どん、と背後から爆発音がした。
 思わず振り返る。ヘリポートの端の下から、もうもうと黒煙が上がっている。
 ここからでは火元は確認できないが、煙の位置から見ておそらく竜の収容庫だろう。
 “おやおや、まだ残党がいたのか。往生際が悪いねえ”
 呆れたように、けれどさほど困るふうでもなく、桐生が言う。
 “仕方ない。ピアナの供給停止はやめだ。こちらへむかっている第三隊を収容庫へ急行させてくれ。そして――”
「!!」
 はっとして、ジインは背後からの一撃を『支柱晶』で防いだ。
 “――第二隊は、黒瀬路音を捕縛次第へリポートを離脱せよ”
 拮抗する力の狭間で、『支柱晶』と銃とが擦れてきりりと音を立てる。
 油断した。疲れ過ぎて、集中が途切れた。
 体を蹴られ術式の上を転がったところへ、強烈な一撃が襲った。
「ぐ、ぅ……ッ」
 脇腹を打たれ、一瞬意識が遠のく。
 うつぶせに転がされ、背中に兵士が馬乗りになる。
 まだ十分には動かない右腕をひねり上げられて、ジインは悲鳴を上げた。
 右胸の傷が引きつり、一気に汗が吹き出る。
「う……うわあああっ」
 背中の上から突然上がった悲鳴に、ジインは痛みにかすむ目をこじ開けた。
 馬乗りになった兵士が、上を見て身をこわばらせている。
「……?」
 どん、とヘリポートの床が揺れる。
 次の瞬間、腹の底まで響く咆哮がヘリポートの空を埋め尽くした。
 背の上の兵士が飛び退く。自由になったジインは顔を上げた。
「……ッ!!」
 体からしゅうしゅうと湯気を上げる黒い竜が、巨大な翼を広げてこちらをねめつけている。
 収容庫に捕われていた竜だ。
 思わず硬直するジインの目の前で、さらに数体の竜が空から飛来する。
 その何体かは、動きの俊敏さからして、収容庫に冷凍保存されていた竜ではない。
 ――竜が、竜を呼んだのか?
 ひときわ大きな黒い竜が鎌首をもたげる。
「ッ!」
 とっさに身を屈めたジインの頭上を飛び越えて、竜たちはより多くの魔法士が集まる魔法士団の陣へと襲いかかった。
 よろめきながら立ち上がると、ジインは転げるようにヘリの陰へと駆け込んだ。
 悲鳴と怒号、そして銃声が交錯する。
 竜の襲撃で、ヘリポートは一気に騒然となった。
 陸島へ飛来する竜の駆逐を主な活動としている魔法士団だが、同時に複数体の竜を相手にすることはほとんどない。数体同時に飛来した場合は、うまく引き離して一体ずつ処理をするのが竜駆除の定石だ。
 複数体の竜の来襲でジインの捕縛どころではなくなった魔法士たちをヘリの陰から伺いながら、ジインはこの場を脱出すべく考えを巡らせた。
 魔法士と竜の間をすり抜けて階段までたどり着くのは危険すぎる。
 もう飛空は使えないけれど、どうにか落下速度を落とすことができれば、ここから地上へ飛び降りて――……。
 ふいに、誰かが笑う気配がした。ヘリポートの端に設置されたスピーカーを見上げる。そこから漏れるかすかな空気の震えを、ジインは感じ取った。
 ――笑ってる。
 ヘリポートを映し出したモニターの前で声を殺しながら楽しげに笑っている桐生の顔が、ジインの脳裏にありありと浮かんだ。
 この予想外の惨劇を、桐生は楽しんでいるのだ。
 敵味方かまわず人が苦しむ様を見るのが何よりも好きな桐生にとって、この惨劇は悦楽以外の何物でもないのだろう。その上、研究材料として弄べる竜創患者が増えるとあっては、桐生としては嬉しさを禁じ得ないに違いない。
 本当に、なんて奴――。
 負傷して竜のまわりに累々と転がる哀れな兵士たちを見回して、ジインはふいに妙なことに気がついた。
 まだ誰も死んではいないのだ。
 遠目では確かな判別はできないが、負傷しているのは腕や足など命には別状のないところばかりで、重傷者はいるけれど致命傷を受けている者は見当たらない。
 かつて『貧困街』で竜に襲われた時のことを思い返してみる。残の群の仲間のように倒れた建物の下敷きになったり、起こった火事で煙に巻かれた犠牲者は多かったけれど、噛まれて即死した人間はいただろうか。
 ばん、と空気が弾ける。魔法士団の衝撃波を受けヘリポートの端まで後退した赤銅色の竜の横顔を、ジインはまじまじと見た。
 ――竜は、人を殺さないようにしている?
 いや、でもおれがソラにかまれた時は……。
 でもあれは、おれが急に飛び出したから――?
 ふいに辺りが陰る。顔を上げると、黒い竜が間近でこちらを見下ろしていた。
 ぎくりと身をこわばらせる。まずい。また、ぼうっと思案に沈んでいた。
 疲労が限界を超えていて、頭がもうまともに働いていないのだ。
 獰猛な双眸をじっと睨みながら、ジインはじりじりと後じさった。
 この間合いでは、襲ってきた瞬間を見計らって横飛びに身をかわすしかない。
 ぐるる、と竜の喉が鳴る。
 『支柱晶』を構えながら、ジインは慎重に後じさった。
 鼓動がうるさく胸を叩き、息が苦しい。
 誰かが落とした銃をかかとで踏みつけ、一瞬よろめく。
 ――しまった。
 構えなおした『支柱晶』を、尾の一閃で叩き飛ばされる。体への直撃を避けた拍子に仰向けに倒れ、巨大な前足で押さえつけられた。
「く……っ!」
 首にあてがわれた大きな爪を引きはがそうともがく。隙間が開いているので苦しくはないが、枷のように体がはまっていて抜け出せない。
 ナイフのように研ぎすまされた牙が、目の前にずらりと並んだ。
 炎の気配を感じるほどに熱い息が、顔にかかる。
 食われる――!
 数秒後に訪れるであろう惨たらしい最期を覚悟して、ジインはかたく目をつぶった。
 1秒、2秒、3秒……。
 荒い息づかいが、何度も頬にぶつかる。
「……?」
 恐る恐る目を開ける。鼻先をしきりに動かして、竜はまるで犬のようにジインの匂いを嗅いでいた。もう少しで鼻面が接するほどの距離でひとしきり嗅ぎ回ると、今度は拳ほどもある大きな双眸で、じっとこちらを見据えてきた。
 ――いったい、なんだ?
 不可解な行動に、目を見張る。
 唐突に空をあおぐと、竜はクルル、と声を上げた。
 ころころと喉を震わせる、聞いたことのない鳴き方だ。
 どこか心地よくさえあるその声に呼応するように、まわりの竜たちも空に向かって鳴き始める。
 クルル、クルル、クルルルル――。
 ――歌ってる?
 低く高く鳴き声を重ね合うその不思議な光景を見上げながら、ジインはしばし呆然とした。
 これは、いったい――?
 スピーカー越しの笑い声が、竜の歌に勝るとも劣らない音量であたり一帯に響き渡る。
 “すばらしい……すばらしいよ黒瀬くん! もしかしたらとは思っていたけれど、まさか本当に『神の資格』を手に入れるなんて!”
 さもおかしそうに桐生が笑う。初めて聞く単語に、ジインは眉根を寄せた。
 カミノ、シカク。
 神の資格?
 それはいったい、何のこと――。
 狂ったような笑い声がぴたりと止む。ジインを傷つける直前に見せるあの冷えきったまなざしが、スピーカーの向こうに見えた気がした。
 “兵士諸君。竜の駆逐は後発部隊に任せる。諸君は黒瀬路音を捕縛次第、へリポートから離脱せよ。何を捨て置いても、黒瀬路音を必ず生きたまま捕らえるように”
 この際手足の一本や二本はダメにしてもかまわないからという一言に、ジインは身をこわばらせた。
 ジインを捕らえていた竜が横に吹き飛ぶ。
 体勢を立て直す間もなく、見えない腕に手足を捕われた。
 両手が空に吊り上げられ、右肩に激痛が走る。額に脂汗を滲ませながら振りほどこうと必死でもがくも、『支柱晶』のない状態ではどうすることもできなかった。
 ぎらつく双眸がジインを捕らえる。
 “黒瀬路音”を捕縛すれば、撤退の許可が下りる。
 竜に喰い殺されたくないという必死さが、兵士たちの形相に現れていた。
 銃器兵の銃口が一斉に手足を狙う。
 このまま手足を砕かれ、捕われたら……。
「――ッ!」
 あの冷えきった双眸が脳裏を過り、恐怖が体を貫く。
 嫌だ。
 怖い。
 誰か。
 だれか。
 ――ソラ。
 喉まで出かかった叫びを呑み込んで、ジインは顔を背けて歯を食いしばった。
 どん、と空気が揺れる。
 とつぜん目の前が暗くなり、まわりの音が鈍くなった。
「!?」
 見えない力が断ち切られ、がくりとその場に膝をつく。
 目の前の闇が、魔法士の糸を遮ったのだ。
 背中に大きな気配を感じる。なんだか温かい。
 銃声が響き、目の前の闇に銃弾が当たった。
 何かが、自分のまわりを覆っている?
 銃声が止み、闇が勢いよく左右に開く。ほぼ同時に、頭上から発せられた強烈な炎が兵士たちを襲った。
「ッ!!」
 背後を振り返り、ジインは驚愕に目を見張った。
 金色の鱗。
 空色の瞳。
 そして、首に下がった見覚えのあるその鍵は――……。

 

「――ソラ……?!」

 

 空を引き裂く咆哮に、両手で耳を覆う。辺り一帯の空気とともに、びりびりと肺が震えた。
 ――どうして。
 愕然としてその場にへたり込む。
 ソラ。
 せっかく人の姿に戻れたのに、また竜化するなんて。
 いったい、なぜ。どうして、また竜に――。
 竜が短く吠える。まるで庇うように翼でジインを包むと、返す翼で迫る炎を吹き飛ばした。
「……え……?」
 返礼とばかりに数倍の炎を吹く竜に、ジインは違和感を覚えた。
 なんだろう。あの時とは、決定的な何かが違う。
 ばくばくと鳴る鼓動をおさえながら、ジインは目の前の竜を見上げた。
 人間のものとは異なる縦長の鋭い瞳孔。それを縁取る空色の光彩。
 こちらを見つめるまなざしには、あの時のような獰猛さは感じられない。
 双眸の奥をじっと見据えて、ジインは息を呑んだ。
 ――まさか。
「わかる……のか? おれの、ことが」
 長い首が小さくたてに揺れる。
 驚愕して、ジインは言葉を失った。
 未だかつて、竜と意思を通わせた人間はいない。
 知性のある竜だって、公の記録にはない。
 震える手を伸ばして、恐る恐る竜に触れた。
 ひんやりと滑らかな鱗の向こうに、脈打つ命を感じる。
「ソラ……本当に……?」
 人格を保ったまま、竜化するなんて。
 でも、どうしてこんなことが――。
 ぎゃっと短く鳴いて、ソラが体をこわばらせる。
 はっと我に返ると、ジインはよろめきながら立ち上がった。
 振り向きざまに『支柱晶』を出現させ、魔法士団から伸びる見えない糸を断ち切る。
 そうだ、ここはまだ戦場なのだ。
 なぜ、どうしてと、細かいことを追求している暇はない。
 銃器兵が銃を構える。足を狙う銃弾を、ソラが翼で蹴散らしてくれた。
 もう大技を繰り出すほどの気力はない。
 それなら――。
「ソラ、炎だ!!」
 『支柱晶』を大きく振りかぶる。それに応えて、ぷく、とソラが喉を膨らませた。
 ごう、と勢いよくほとばしる炎に見えない力を加えて、ジインは身を屈め床すれすれの位置で思い切り『支柱晶』を薙ぎ払った。
 床を走る炎が、張りの甘い膝下の防護壁を打ち破り、魔法士たちに襲いかかる。
 魔法士の列が、悲鳴とともに崩れた。
 これでしばらくは時間が稼げる。
 振り返ったジインに、ソラは短く鳴いて背中を示してみせた。
「え……? あ、乗れって? 背中に?」
 竜がぶんぶんと首をたてに振る。本当に言葉が通じているようだ。
 “すごいじゃないか、黒瀬くん! お姫様を助けに金の竜が現れるなんて、まるでおとぎ話みたいだよ!”
 なんてロマンチックなんだろうと、スピーカーから楽しげな桐生の声が響く。
 “その竜は弟くんだろう? まさか、自分の意志で竜化したのかい? “ヒトガタ”の人格を保ったまま? 驚きだなあ、そんなことができるなんて、よほどお兄さんが好きなんだね。感動的な兄弟愛だ。実にいい話だよ”
 桐生の声がわずかに調子を変えた。
 “くだらない感情一つでどうしてそこまでできるのか……弟くんのほうも、ぜひバラバラに解剖して調べてみたいねえ”
 心底楽しげな桐生の声に、ぞくりと悪寒が走る。
 けれどその恐怖を突き破る勢いで、強い意志がわき上がった。
 ――ソラには指一本触れさせない。
 ぐっと拳を握る。足をかけて飛び乗ると、ジインはソラの首の付け根あたりにまたがった。
 手に足に絡み付く見えない力を、『支柱晶』をなぎ払って断ち切る。
 桐生の笑い声が聞こえた。
 “どこへでも逃げればいいよ。この世界は狭い。ちょうど時間も必要だ。そう……その背に神紋が現れるその時まで、空に閉ざされたこのちっぽけな世界をせいぜい逃げ回ればいい”
 どこへ逃げても見つけ出して、必ず迎えにいくからと、呪いのような言葉が背筋を震わせる。
 ぐん、とソラが飛び上がる。転がり落ちそうになり、ジインは必死でソラにしがみついた。
 傷に響くほどの激しい揺れを、魔法で体を固定してどうにか堪える。
 竜に乗った人間は自分が初めてだろうが、決して乗り心地がいいとは言えないようだ。
 揺れがおさまると、今度は胃の浮くような落下感と凄まじい風が襲ってきた。
 ぼうぼうと響く風の音が耳を塞ぐ。
 冷気が肌を裂くようだ。
 息が苦しい。
 そうだ、防護魔法を――。
 体に気体の壁を張る。だいぶ呼吸が楽になった。寒さも和らぐ。
 そこで初めて、ジインは固く閉じていた目をそっと開けた。
「は……、」
 凄まじい勢いで雲が背後へ流れていく。
 すごいスピードだ。
 背後を振り返ると、『ハコ』はすでに遠く雲の向こうだった。
 数秒前までそこにいたことなど信じられないくらいに、戦場はあっけなく遠ざかり、景色の一部と化していた。
 呆然とするジインの視界の端に、とつぜん白く輝く光の円弧が現れた。
 遥か下空、『空ノ底』の東縁が光っている。
 巨大な円の形をした前人未到の地の下から、今まさに朝日が昇ろうとしているのだ。
 円弧の頂点の光が徐々に強くなり、そのふくらみが限界に達した時、光が破裂した。
 夜明けだ。
 縁から現れた太陽が、雲の群を桃色に染め、金色で縁取っていく。
 雲の影と光の帯が幾重にもなって、あっという間に世界を埋め尽くした。
 金銀、桃色、薄紫、そして青。
 色と色、光と光が重なり合い、滲み合って、空を染めた。
「……きれいだ」
 呆けたように呟く。
 まるで光の神殿にいるようだ。
 もし天国があるとしたら、きっとこんなふうだろう。
「なあ、ソラ!! 見てるか?!」
 風に負けないように叫んで、竜の首筋を叩く。金色のウロコが朝日を弾いて、宝石のようにきらめいた。
 防護壁はあとどれぐらい保つだろう。体力も気力もすでに限界を超え、気術神経は今にも焼き切れそうにきりきりと悲鳴を上げている。
 いつ意識を失ってもおかしくない状態で、ジインはソラにしがみついていた。
 魔法が使えなくなれば、ソラに掴まっていることも、息をすることもできなくなる。
 けれど、そんなことはどうでもいいような気がした。
 だって、ここにソラがいる。
 だって、空がこんなにきれいだ。
「なあ。このまま二人で飛んで行こうか……どこまでも、空の果てまで」
 ふいに思い出すのは、『貧困街』にいた頃の記憶。
 二人で青空を見上げながら、果てない夢を描いたあの日のことだ。

 

 空へ出よう。
 飛空船を買ってさ。
 世界中を飛びまわって。
 だれも知らない場所を探しに行こう。
 なあ、ソラ。
 おれとおまえなら。

 

 どこまでも、飛んでいける気がするんだ。

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