044 eclipse

 夜の黒が濃紺へと変わり始める。
 永遠に続くように思えた重苦しい夜が、もうすぐ明けようとしていた。
 青く沈んだ部屋の片隅。硬いソファに浅く腰掛け、ソラは足元の闇をじっと見つめていた。
 ベッドの上でジインが身じろぎ、呼吸の音が変わる。
 しばしの沈黙の後、闇の向こうで掠れた声がぼんやりと呟いた。
「……なんだ……まだ、生きてるのか……」
 他人事のようなその声に、臓腑が落ち込む。
「……いつから、あんな発作が?」
 ベッドの上に問いを投げかけるが、答えはない。
「どうして、何も言ってくれなかったの?」
 さらに問いを重ねる。青い闇の向こうで、ジインはただ静かに呼吸を繰り返している。
 その横顔を見つめて、ソラは待った。
「……言ったら、何か変わったのか?」
 長い沈黙の後、根負けしたジインが深いため息とともに囁く。
「おまえが発作のことを知っても、何も変わらない。お互いに苦しくなるだけだ……せっかくの穏やかな時間を、わざわざ気まずくすることもないだろ」
 “ヒトガタ”であるソラの聴力でなければ聞き取れないほどのか細い声で、まるで独り言のように呟くジインに、ソラは静かに訊ねた。
「……いつまで、保ちそう?」
「……さあな……でも、今日明日ってことはないと思う。進行の速度自体は、普通と比べると相当遅いよ。竜創患者の最長存命記録を更新中だ」
 だから心配するなと、ジインがまた小さく笑う。
 その笑顔が胸につかえて、息が苦しい。
 胸をぐっとおさえると、ソラは喘ぐように声を絞り出した。
「ジイン……やっぱりここを出よう。外国へ渡って治療法を探すんだ。今ならまだ間に合うかもしれない。いい方法があるかどうかはわからないけど、このままここにいて終わりを待つよりましだ」
「――嫌だ」
 手のひらで顔を覆ったジインが、低く呻く。
「ここから出るのは、嫌だ……あるかどうかもわからない治療法を探すために、幸せな時間を無駄にしたくない」
 ――幸せ?
「……ここにいて、ジインは幸せなの?」
 思わず問う。その横顔がわずかに息を止めた気がした。
「このままここにいて、ジインは本当に幸せ? ここへ来てからジインはよく笑うようになったよね。でも、それ、本当に笑ってる?」
 そうだ。ずっと違和感があったのだ。
 不自然なほどに穏やかな空気。
 その中で笑うジインは、まるで心安らかであることを義務づけられているかのようで。
「……、ろ……」
 ジインの呼吸がわずかに荒くなる。何かを堪えるように手のひらで顔を覆ったままのジインが、苦しげに呻いた。
「幸せ、だろ……ここにいる限り、奴らには見つからない。やっと二人で静かに暮らせるんだ。これ以上幸せなことなんて、ないだろ……」
「そうやって、ただ自分をごまかしてるだけじゃないの?」
 もどかしさから、思わず責めるような口調になる。
 ソラも、もうわからなくなっていた。
 ジインの本心は、いったいどこにあるのか。
 ジインの本当の望みは、いったい何なのか。
 その答えを、ジインは自らの内にしまい込み、かたくなに見せようとしない。
「ねえ、ジイン……!」
「やめてくれ!」
 鋭い声がソラを遮る。
「もうやめてくれ……竜毒は消えない。竜創患者は治らないんだ! 根拠のない希望なんていらない……叶わない夢なんて見させないでくれ」
「夢で終わるかどうかなんてわからないだろ! 世界中をくまなく探したわけでもない、まだこの国すら出ていないのに、どうして治らないって決めつけるんだよ!? もちろん簡単には見つからないと思う。間に合うかどうかもわからない。でも少しでも望みがあるなら前に進むべきだよ!」
「もう嫌なんだよ、追われて逃げ回るのは!」
 勢いよく体を起こしたジインの下で、ベッドがぎしりと軋む。その音に呼応するように、ジインの顔が苦しげに歪んだ。
「ここを出れば、また始まる……逃げて、隠れて、追われる日々が! 『裏懸賞金』はまだ解除されてないんだろ? 魔法院か、賞金稼ぎか、あるいは他の誰かが、おれたちを追ってくる。朝から晩まで逃げて隠れて、誰かの足音に怯えて……。もう嫌なんだ、そんな生活」
 力なくうなだれて、ジインはやせた右肩をきつく掴んだ。
「たとえ世界の果てに治療法があったとしても、おれにはもう、そこまでたどり着く力がない……いつ発作が起きてもおかしくないこんな体じゃ、院の追手から逃げおおせるなんて無理だ。今度捕まったら、もう……逃げられない……!」
 悲痛な声が震える。
 駆け寄ってその肩を抱き、力強い言葉をかけたい衝動に駆られた。
 けれどソラは、ただ強く拳を握り、言葉を呑み込んだ。
 オレが守る。守ってみせる。
 そう言うのは簡単だ。
 けれど、それをためらう。
 自分には本当に、ジインを守る力があるのだろうか。
 必ず助けてみせると意気込んで『ハコ』に乗り込んだものの、目当てのデータは盗み出せず、その上無様に負傷し、結局助けるはずのジインに助けられ、いま自分はここにいるのだ。
 オレは、弱い。
 頭も悪いし、要領も悪い。何一つ、ジインのように器用にはできない。
 拳を開いて、手のひらを見下ろす。
 あの時は意識を失ったジインを抱えて動揺しており、詳しく検証するような余裕がなかったが、竜の姿から人に戻ることは思いのほか容易かった。
 あれ以来、竜化は試していない。
 オレがもっと、自分の能力を有効に生かすことができれば――……。
「ソラ……おまえはもう、ここを出ろ」
「え……?」
 顔を上げる。呼吸を整えたジインが、こちらを見ずに静かに呟いた。
「急に成長した今のおまえなら、先月『ハコ』を襲った“ソラ”と同一人物だなんて誰も気づかない……金さえあれば『身分証』を偽造して外国へ渡れる。そうだ、おまえ一人なら竜の姿で空も渡れるだろ? おれみたいなお荷物がいなければ、おまえはどこへだって行けるんだ」
 だからもう、ここから出て行け。
 突然の宣告に愕然とするソラをよそに、ジインは淡々と続けた。
「おまえがこれ以上ここにいても無意味だ……もう看病も必要ない。炊事も、まあ、どうにかひとりでやっていくよ。だから……」
「な、なに言ってんだよ!」
 我に返ると、ソラはまなじりを吊り上げた。
「ジインをひとりで置いて行くなんて、そんなことできるわけ……」
「おれはおまえと同じ時間を生きられない。このまま一緒にいても、互いに互いを追い詰めていくだけだ」
「オレは追い詰められたりしないよ! どうして、そんな……!」
「苦しいんだ。おまえといるのが」
 食い下がるソラをばっさりと切り捨てるようにジインが言う。ソラは言葉を失った。
 オレといるのが……苦しい?
「それは、どういう、意味……」
「おまえはこれからどこへだって行けるけど、おれはこの部屋すら出られない。同じ空間にいて、同じものを見て、同じように笑っていても、おれとおまえの立っている世界は違うんだよ。おれはもう、おまえと同じ道を歩いては行けない。それが悲しくて、辛くて……苦しい」
 頭が真っ白になる。
 ジインが、オレといて、苦しい?
「そんな……だって……でも……」
「疲れた」
 掠れた呟きが、どすん、とソラの胸を穿つ。
「何もかも、もう、疲れた……」
 絞り出すようにそう囁いて、ジインはシーツの上へずるずるとくずおれた。
 疲れた。
 その一言は、どんな言葉よりも重く深く突き刺さり、ソラを打ちのめした。
 透明な青い闇が、二人の間に横たわる深い川のよう。
「空を渡るなら、おまえひとりで行ってくれ。おれはもう……ここから出られない」
 こちらに背を向け、ジインが上掛けにくるまる。
 ベッドの上で小さく縮こまるその姿は、まるでこの世のすべてを拒絶しているようで。

 

 手が、届かない。

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