045 sink

 走る。走る。走る。
 長い廊下をひた走る。
 背後から何かが追ってくる。
 なにか、とてつもなく恐ろしいものが。
 息を切らし夢中で逃げながら、ジインは背後をわずかに振り返った。
 長い長い廊下の先。暗がりの中に一人の男が立っている。
 顔は見えない。けれどジインは知っていた。
 男は嗤っている。
 すぐに前を向きひたすら足を動かす。
 周囲の景色は走る速度に合わせて背後へ流れるものの、廊下の終わりは一向に見えてこない。
 足を止めずに再び振り返る。
 先ほどよりもずっと近い場所に男は立っていた。
 こちらを追いかけてくるような様子はない。ただ後ろ手に手を組み、廊下に突っ立っているだけだ。
 それなのに……。
 薄い唇がにたりと嗤う。ジインは戦慄した。
 逃げる。逃げる。ただひたすらに逃げる。
 三たび振り返った時、男はすぐ背後に迫っていた。
 にたにたと気味悪く笑っているのに、眼鏡の奥の目だけは笑っていない。
 前へ向き直った瞬間、ぽん、と肩を叩かれる。
 気がつくと、そこはすでに明々と照らされた手術台の上だった。
 台をぐるりと取り囲む男たちが、嗤いながらジインを見下ろす。
 細いフレームのメガネに、灰色の髪。すべて同じ顔、同じ男だ。
 嫌だ。嫌だ。
 叫んでいるつもりが声にならない。
 心底楽しそうに笑いながら、男はジインの胸にメスを突き立てた。
 痛みはない。血も出ない。
 けれど、体内に異物が侵入する感触だけが妙にリアルで。
 切り開かれた箇所に、男が手を突き込む。
 それを合図に、男たちが一斉にジインに手を伸ばした。
 口、耳、あらゆる隙間から、あるいは切り開いた箇所から、手が、指が、ジインの内側に入り込んでくる。
 それはまるで蛇のようにうごめいて、内部をなぶって弄び、照明の下へ引きずり出して、ジインを内側からバラバラに暴いていく。
 そのおぞましい感触に、ジインは今度こそ悲鳴を上げた。

 

「う、ぁ、あ……ッ!」
 短い悲鳴を上げて飛び起きる。
 汗だくのシャツをまさぐって、ジインは体中を確かめた。どこにも異変はない。
「ゆ、め……」
 ほう、と安堵の息を吐き、慌てて辺りを見回す。部屋はしんと静まり返っている。ソラは出かけているようだ。
 悲鳴を聞かれなかったことに再び安堵して、ジインはベッドへとうつぶせに倒れ込んだ。
 しがみつくようにしてシーツに顔を埋め、荒い呼吸を整える。汗が冷え始めて少し寒い。時刻は昼を過ぎたあたりだろうか。とても静かだ。少し窓が開いているのだろう、薄いカーテンが揺れている。
 ベッドに倒れ込んだまま、ジインはクリーム色の古びたドアに目をやった。
 その向こうに、にたにたと笑う男の幻が過る。
 ぞくりと背筋に冷たいものが走り、ジインは低く呻いて再び白いシーツに顔を埋めた。
 かすかに鼻孔をくすぐる洗剤の香りが心を静めてくれる。
 そう、ここにいれば安全だ。
 ここにいる限り、あいつに見つかることはない。
 だから、おれは――。
 ――おまえはもう、ここを出ろ――。
「あ……」
 昨夜の記憶がふいによみがえり、ジインははっとまぶたを開いた。
 ――苦しいんだ。おまえといるのが――。
 起き上がり口元を押さえる。己の口から紡ぎ出された暴言に今さら激しく動揺した。
 おれは、なんて酷いことを。
 ソラは、今どこへ?
 テーブルの上へ目をやる。ソラは出かける時、いつも簡単なメモを残していくのだ。
 “買い出しへ行ってくる”
 いつもならそんな一筆が記されたメモが乗っているはずの古びたテーブルの上は冷たくまっさらで、何もない。
 どくんと心臓が跳ね、慌てて視線を巡らせる。部屋の隅、上着とザックが置いてある場所には、ジインの上着だけがぽつんと残されている。
 普段の買い出し程度ならわざわざザックは持っていかない。
 ――空を渡るなら、おまえひとりで――。
「まさか……」
 嫌な予感にざわざわと胸が騒ぎ始める。
 まさか、まさか本当にひとりで……?
「……ッ、」
 ドアに駆け寄り、ジインはノブに手をかけた。ドアを押し開けようとした瞬間に足がすくみ、手が止まる。
 ここを一歩出れば、やつらのいる世界だ。もし見つかれば、今度こそ逃げられない。
 院に捕まれば、あの男に――。
「――ッ、」
 ぐ、と唇を噛み締める。
 一度奥へ引き返し上着を掴むと、ジインはそれを頭から被って外へ飛び出した。
 すぐそばの階段を駆け上がり、人気のない路地を見回す。
 いつもソラが行っている市場はどちらの方角だろう。何という名の市場か。どの路地をどう行けばたどり着けるのか。詳しい話は聞いていなかった。なぜ、聞いておかなかったのか。
 ――自分には関係がないと思っていたからだ。
 もう自分があの部屋から出ることはない。
 だから外のことを知る必要はない、知っても無駄だと決めつけて、知ろうとしていなかった。
 あの部屋の奥に一人で閉じこもり、何もかもから逃げていたのだ。
 魔法院から、あの男から、竜毒から、現実から……ソラから、さえ。
「ソラ……どこだ」
 いつもの買い出しに行っているだけだろうか。
 それとも、本当にひとりで空を渡って――?
 不安がぱんぱんに膨らんで、息が苦しい。
 かすかに喧噪を感じるほうへ当たりをつけて、ジインは駆け出した。
 鉄の階段の冷たさに足を刺されて、靴を履いてくるのを忘れたことに今さら気づく。
 けれど、そんなことにはかまわずにジインは走り続けた。
 大した距離ではないのにもう息が上がる。体力が落ち切っているのだ。
 肺が軋みを上げ、両足の動きが鈍り始める。ようやく上がりきった階段の先、動物の巣穴のように暗く狭い通路の向こうに、行き交う人の影が見えた。
 上着を雑に羽織ってフードを深く被り、平静を装って人の多い通りへ足を踏み入れる。
 視界いっぱいにうごめく人ごみを久々に目にして、その忙しなさにくらりと目眩がした。
 ソラ、どこだ。
 大声で呼ばわりたいのを堪えながら、ジインは必死で周囲を見回した。
 薄汚れた色彩が行き交う中にはそれらしき人は見当たらない。
 ソラの行きつけの市場はここではないのだろうか。
 では、いったいどこへ。
「ソラ……」
 ばくばくと心臓が鳴る。
 募る不安は、階段を駆け上がった時よりもさらに激しく呼吸を乱れさせた。
 本当にひとりで行ってしまったのだろうか。
 ――空を渡るなら、おまえひとりで行ってくれ。おれはもう……ここから出られない――。
 そう言った。確かに、言った。
 けれど、でも……。
「ッ、」
 強かに肩がぶつかり、その場に倒れ込む。
「ってぇな、どこに目ぇつけてやがる!」
 受け身をとるより先に靴の裏で肩を蹴られ、派手に路地を転がった。壁際に積んであったゴミに体がぶち当たり、がしゃんと甲高い音とともに空き缶が散らばる。
「う……」
 目眩を起こしてすぐに立ち上がれずにいると、数人の足がまわりを取り囲んだ。
「なに、こいつ。何か変じゃね?」
「げぇっ! 裸足じゃん。頭イカれてんの?」
「その辺で寝ててクツだけ『ノラ』に盗られたんじゃね?」
「ぎゃははっ! そりゃマヌケだなあオイ」
 ちょっとそのマヌケ面を見せてみろよ、と男がジインの髪を掴んで、ぐいと引いた。
 無理やり顔を上げさせられ、男と目が合う。
 あ。まずい。
 慌てて顔を背けるが、もう遅い。
「おい、こいつ……」
 相手が息を呑む気配がした。嫌な汗がどっと吹き出す。
 腕を振り払って逃げようとしたが、数人がかりで抑え込まれて狭い路地へと引きずり込まれた。
 路地の上を引きずられる足が今さらになって悲鳴を上げている。靴を履いていないせいでうまく踏ん張ることもできない。
 薄暗い小さな路地へ突き飛ばされて仰向けに倒れ込む。手足を押さえつけられ、背けた顔を無理やり掴まれて、無遠慮な指が無理やりまぶたを持ち上げた。
「間違いない……こいつ『オリエンタル』だぞ」
「マジかよ?! 俺初めて見た」
「なんで『オリエンタル』がこんなとこフラついてんだよ」
「さあな。“飼い主”のとこから逃げてきたんじゃねえの?」
「あーなるほど。だから裸足なのか?」
「どれどれ、俺にも見せろ……うおっホントにすんげえ別嬪だな! これ女?」
「男だろ、たぶん。剥いてみっか?」
 不幸中の幸いか、男たちは指名手配中の魔法士だとは気づいていないようだ。
 それなら、魔法は使えない。もし魔法士だとばれたら、すぐさま通報されて院の追手が駆けつけるだろう。
 男の手が襟元へと伸びてくる。その手に噛み付いてやりたい衝動を抑えて、ジインは顔を背けた。
 今はまだ派手に抵抗はせずに油断させる。そしてどうにか隙を突いて逃げようと思案し始めたところで、ふと思考が止まった。
 ここから逃げて、その後はどこへ?
 あの部屋へ帰るのか?
 ――ソラのいない、あの部屋に?
「……は、」
 詰めていた息を吐き出す。と同時に、全身の力が抜けた。
 もう、止めにしようか。
 起き上がるのも、考えるのも、こいつらを叩きのめすのも、もう面倒だ。
 逃げて部屋に帰り着いても、どうせ誰もいないのだ。
 この体も近いうちに消えてなくなる。
 なにもかもが、もう終わりなのだ。
 そんなことはない、あきらめるな、立ち上がってソラを探しに行くんだ。心の片隅ではそんな声が上がっているが、どうしても体に力が入らなかった。
 重く粘ついた何かに全身がどっぷりと浸かってしまったように、ぴくりとも動かない。
 この絶望には覚えがあった。
 ソラと出会う直前、群の仲間をいっぺんに失ったあの夜だ。
 雪の中で膝をつき、もうこのまま終わりにしようと思った。
 あの夜に消えかけた魂は、ソラという存在のおかげでかろうじてこの世界にとどまっていただけだ。
 魂の楔を失えば、この世に自分をとどめるものは何もなくなる。
「うっわ、肌白!」
「おっ、なんだこれ。痣? いや、タトゥーか?」
「うへえ、傷だらけだぞコイツ! 悪趣味な飼い主だな」
「いや、でも、逆にエロくね? この傷……」
 卑猥な視線を向けてくる男たちの頭の向こうに、小さく空が見えた。
 複雑に重なり合う建造物の小さな隙間から見える空は、そう離れていないはずなのにひどく遠く見える。
 薄暗いこの路地に、その光は届かない。
 ああ、まるで暗く冷たい水底にいるようだ。
 水面に浮き上がる力もなければ、息ももう続かない。
 このまま。
 沈んで。
 消えてしまえば。

 

 もう、苦しまずに済む?

 

「ギャッ!!」
 ジインを取り囲んでいた男たちが二、三人まとめて吹き飛ぶ。
 風がふわりと頬を撫でた。
「なんだテメェ、」
 言いかけた男が次の瞬間、壁に叩き付けられてべしゃりとその場に伸びた。
 全員が路地に転がって声を上げなくなるまでに、ほんの数秒。
 突然の出来事に呆然としていたジインを、そう太くもない腕が助け起こす。
 ようやく視界に入ったその人に、ジインはあっと声を上げた。
「ソ、ラ?」
「こっち」
 声を落としてソラがジインの手を引く。
 路地の入り口では物音を聞きつけた通行人が何事かとこちらを覗き込んでいる。
 その目を避けるようにして背を向けると、ジインはソラに手を引かれるまま足早にその場を後にした。

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