049 いと尊き何者か

 ジインはふと目を覚ました。
 しんと静まり返った部屋の中。真夜中ほど濃くはない、けれど朝と呼ぶにはまだ暗い闇の向こうで、カーテンがゆらゆらと揺れている。
 窓を閉め忘れて寝ちゃったのか。
 窓はジインが寝ているベッドのすぐ上で、少し手を伸ばせば届く距離だ。
 閉めようか。面倒くさいな。いいや、寒くないし。
 ぼうっとした頭でそんなことを考える。
 基本的に、ジインは一度寝たら朝まで起きない質だ。
 そんな自分が夜中に目が覚めるなんて珍しいなと思いながら、ジインは寝返りをうった。
 そして、
「ッ!」
 心臓が跳ね上がり、体が硬直する。
 枕元に、知らない男が立っていた。
 眠気が一瞬で覚め、全身から汗が噴き出す。
 誰だ。
「……ソ、ラ?」
 掠れた声で言う。闇の中でよくよく目を凝らしてみれば、それはソラのようだった。
 いや、おそらくソラ、なのだが、なぜか確信が持てない。
 金色の髪。空色の瞳。しなやかな手足に、最近自分を追い越した背丈。
 どこか見た目が変わったわけではないのに、どうしても、目の前のソラをソラだと思えない。
 ソラは窓の外を見ていた。カーテンで遮られ、今は見えないはずの窓の外を。わずかに顔を上げているから、その視線は窓の外よりもっと先の、遥か遠いところへ向けられているようにも見えた。
「ソラ、そこでなにしてるんだ……?」
 恐る恐る囁くように問う。ソラの視線が異常なほどゆっくりとした動きでジインへ移動した。
 まったく瞬きをしないその眼差しは、何も見ていないようにも、こちらを凝視しているようにも見えた。
 唇がわずかに動いてなにか言う。聞き取れない。
 何か言おうとジインが口を開いた瞬間、ゆっくりとソラが動いた。
 体の両側にだらりと下がっていた腕が、ひどく緩慢な動きでジインの方へと伸びてくる。
 心臓がばくばくと鳴る。
 確かにソラなのに、ソラではないソラの手が、ゆっくりと迫ってくる。
 逃げたい。けれど、なぜか身動きができない。
 体を強ばらせたまま微動だにできないジインのシャツの胸元を、ソラの手が掴む。
 そして、
「ッ!」
 ぶつ、と嫌な音を立てて、ボタンが飛んだ。
 ボタンがこつんと小さな音を立てて床へ転がるが、ソラはまったく意に介さない様子で、シャツを掴んだ両手をゆっくりと広げていく。
 なにするんだとか、やめろとか、そんな声を上げることも思いつかないまま、ジインはただ呆然とソラを見ていた。
 この手の動きは、何かに似ている。
 そうだ、あれはいつかどこかで見た、資源のリサイクルに関する資料映像で。
 人には到底及ばない力で、廃材をゆっくりと押しつぶしていく、あの機械だ。
 ソラの動く速度がきれいに一定に揃い過ぎていて、まるで機械のように見えるのだ。
 シャツが軋みを上げ、負荷に耐えかねたボタンがまた一つ弾け飛ぶ。その瞬間でもソラの手がぶれることはない。
 この動きは、外からの干渉を受け付けないほどの絶対的な力が、何の感情もなくただ目的のためだけに働く時のそれと同じだ。
 同じ力で、もし、掴んでいるのがシャツではなく、首だったら……?
 ソラの手がぴたりと止まる。その視線は、あらわになったジインの右胸に向けられていた。
 ――花斑を、見ている?
 そのまましばらく静止した後、ソラはまるで映像を逆に再生するように、まったく同じ角度と速度でシャツの胸元を元の位置に戻し、同じ姿勢になって再び窓の外を見た。
 見ているのか、いないのか、よくわからない眼差しをじっと窓の外へと向けて、数秒が経つ。
 そして、
「――あれ?」
 何度か瞬きをしてから、ふいにソラがジインを見た。
「ジイン、起きてたの? てゆうか、起こしちゃった?」
 ごめんね、とボリュームを抑えた声で言いながら、ソラはベッドに膝をついてカーテンに手を突っ込み、窓と鍵を閉めた。
 表情も声もいつもと同じで、目の前にいるそれは確かにソラだった。
 全身の力がどっと抜ける。鼓動がまるで早鐘のようだ。汗で湿った両手で顔を覆うと、ジインは長く息を吐いた。
「なんだよ、今の……」
「え?」
「なんだったんだ、今のは……」
 恨めしそうにうめくジインに、ソラがきょとんと首を傾げる。
「何って……トイレに起きたら、この窓が開けっ放しだったから閉めただけだけど?」
 そうじゃなくて、さっきのあれは。
 さっきのおまえは、いったい誰だ。
 そう問おうとして、止めた。
 たぶん、ソラは覚えていない。
 不思議そうにジインを見下ろしていたソラがふいに眉をひそめる。
「ちょっと、ジイン、なにそれ」
 止める間もなく、ジインの胸元にさっと手が伸びてくる。さっきとは全く違う、素早い動き。
 いつものソラだ。
「なにこれボタンとれてるじゃん! てゆうか、うわ、すごい汗だよ?!」
 ソラの顔色が変わる。
「もしかして、また発作が?」
「違う……」
「じゃあなんで全身汗だくでボタンがとれてるんだよ!?」
 それはこっちが聞きたいくらいだとジインは思ったが、言わずにおく。
「よくわからないけど、たぶん、寝ぼけて、引きちぎった……のかな」
 最後に「おまえが」という言葉を心の中で足せば、あながち嘘でもなかった。
 ジインにもよくわからないが、もしかしたらあの時、ソラは寝ぼけていたのかもしれない。可能性は低いけれど。
「寝ぼけてシャツのボタンを引きちぎるか?」
「たぶんって言ったろ。おれにもよくわからないんだよ。気づいたらちぎれてた。痛かったり苦しかったりはしてないし、発作だったらちゃんとそう言うよ。もう隠す必要もないし」
「でも、じゃあ、その汗は?」
「わからないよ、おれだって寝てたんだから」
 若干イライラしながら言う。そもそも自分は寝起きが悪い質なのだということをジインは思い出した。
 さらになにか言おうとしたソラに、
「なんだか怖い夢を見たような気もするけど、誓って発作じゃない。なんでボタンがちぎれたかはわからないけど、それだけは確実だから」
 てゆうかちぎったのおまえだしという言葉を呑み込んで言う。わずかに苛立ちの混じる声音に、ソラはそれ以上の追求は止めてため息を吐いた。
「わかったよ、とりあえず替えのシャツ持ってくるから、着替えた方がいい。ああ、ボトムと下着も取り替える? あ、ボタン拾わなきゃ」
 ソラが部屋の明かりをつけ、ジインはそのまぶしさに顔をしかめた。
 あったよかったと小さなボタンを拾い、着替え着替えと言いながらソラが洗面所へと消える。
 顔を覆う指の間から、ジインは窓を見た。
 カーテンの向こう。窓の向こう。深く広大な谷、『虹ノ谷』の上の、さらに上空。
 遥か空の上にあるという、『神ノ庭』。
 ベッドを軋ませて体を起こす。
 ソラが竜化する時に聞こえたという“鈴の音”。
 いくら耳を澄ましても、ジインの耳にはソラが聞こえているような音は聞こえなかった。
 先ほどの、まるで無機質なソラの動きを思い出す。
 ――竜化する時は、なんていうか……空から命令が降ってくるみたいな感じがして――。
 命令とは、いったい誰からの。
「……『神ノ庭』に、いったい何があるっていうんだ……」
 口の中だけで呟く。ジインが窓から目をそらすと、ちょうどソラが着替えを手に戻ってきた。
「はい。明日洗ってからでいいから、シャツのボタンは自分でつけてね」
 前に一度、ソラにつけてもらったボタンを引っぱったらするすると糸がほどけたのを思い出しながら、ジインはうんわかったと返事をした。
 脱ぎ落としたシャツはぐっしょりと汗を吸っていて、重たかった。

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